37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

+ビューティフル・ドリーマー


佐保姫降臨、春です。



ああ、そうか。わたし、ビューティフル・ドリーマーになりたかったんだ。いつも誰かの名前を呼びながら世界から飛び降りつづけ、醒めつづけながらして、より深く美しい夢を見つづけていたいのだった。今日の夢は美しかったですか、みなさま。今日、呼べるものは見つかりましたか。見つけた人から、順番に飛び降りてしまいましょう。おやすみなさい、世界中のビューティフル・ドリーマーたち。 

+*謹賀新年*2014*+

                  



 あけましておめでとうございます。つたない日記ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。巫女の血が流れているのならば、本年も心からの感謝を込めて、ここを訪れて下さった皆様にあらんかぎりの新年の言祝ぎを。今年は去年よりもよき1年でありますように。
 例年より遅くなってしまいましたが、2014年もこうしてご挨拶できること、それだけがとても嬉しい日記です。挨拶を交わせるということ、ただそのことが奇跡のように感じられる瞬間があります。わたしとあなたが存在しているからこそ起こせる不思議。どちらかがいなくなってしまったら、もう不可能なこと。だから、わたしがここにいるかぎり、何度でも嬉しいと繰りかえしたい。


 去年はなかなかあわただしく過ごした年でした。年初めの記憶は、十億年たったと言われたら信じてしまえそうなくらいに遠く朧気に感じます。それにもまして、本年はさらに忙しくなりそうな気配さえしています。
 ならば、あえて今年はもっと言葉と寄り添って過ごしたい、そう思います。去年の年始の日記に、たとえ何があっても、いくら突き放そうとしても、言葉や物語たちだけは最期までこの手を離さないでいてくれると書いた、その言葉や物語たちとより深くこの世界に潜っていきたい。呼吸をするように、身体をめぐり流れる血のように、なくてはならないものとして。心が残っているうちは書きつづけられる、なによりもその軌跡として。 
 もう何年も前に決めた、何があってもこれからもずっと孤独でありつづけるということ。そういう部分を持ちつづけるということ。それは、尋めゆくことを忘れない、ということ。言葉と、すなわち世界と出逢いつづける、ということ。


 でも、この世界から落ちそうになるときに、最初に消えていくのは言葉です。なにも言葉がでてこなくなる。しゃべることができなくなる。思考が止まって、何をどう伝えていいのかわからなくなる。自律神経が弱い身体は、熱と頭痛ですぐに動かなくなってしまう。
 だからこそ、また今年も落ちそうになったら、今年は言葉を連れて深く深く潜っていこうと思います。もっと闇の奥底を覗いてみたい。不可視なもの、音や香りや気配だけの嫋やかなもの、知覚できないものも含めて、すべてを言葉の掌上にのせてみたい。言葉たちに支配されるのではなく、むしろ言葉を殺しながら、また新たに生み出すようなことをしてみたい。残されている時間は決して多くはないのだから。
 ひとつ踏み外せば二度と戻ってこれなくなる危うさがあるのだとしても、もう一度浮かび上がれるのならば、そのときに何よりも美しく世界を黄泉がえらせてくれるのも、また言葉なのだと強く信じて。

2014年のご挨拶にて。あおい拝。


photo by aoi, Enoshima Iwaya Cave with agleam.

+断 片


言葉にもならない夢の断片を見続けるのだけれど、こちら側に目覚めてからもまだ溶けずに残って居る欠片があるみたいでふわふわ過ごす。アルコールだってこんなふうには効かないものなのに。

+物 語

太陽を背に、端然と立つ人を尋め行きました。青白い氷原でその人は火照りを帯びているようでした。
「熱があるの。少しね」
微笑むその人が氷に刻んだ文をたくさん読みました。小さな熱に溶けた言葉は滴となって黎明の波を奏でます。
「この下にはね。氷琴窟があるの」
両手を割って両耳に被せました。切なくも温かく、眠りたくなるうたでした。うたが掌を、耳を、心を通り抜けて空へと昇ります。
「物語が好きなのですね」
 尋ねると、その人は笑みを広げました。
「それでは物語りましょう。ここにある景色を、温度を、香りを、うたを、あまい血の薔薇までも語りましょう。儚さは滅びるだけのものではないと、美しさの感度を高めるものだと伝えましょう。物語で形どられた貴女の物語。主人公の名は……」
 雪を好きなその人の白い息が囁きます。トゥルヴェールは頷いて、うたいました。
「これは北端あおいの物語。物語を抱き締める人の物語。うたうたおう。うたとうたとの出会いのうたを、新たなうたの生まれるうたを、祝福とともにうたうたおう」



この日記を読んでくださった方が感想のような、ちいさな物語のようなメッセージをくださいました。ご許可をいただいて転載いたします。まずは日記を読んでくださってありがとうございます。一般性のない日記です。読んで戴けるだけでも嬉しい日記に、言葉まで戴いてしまいました。
でも。もしもこの世界のどこかに同じような思いをしている人がいるのなら、そういう人たちに届けばいいなと思って書いています、日記というよりも手紙を綴るように。そして、一瞬でもこの世界を美しいと思ったことを忘れないために書きたい。たとえば、書物や映画、巡り会った景色や人形として目の前にふと顕れてくるものたちのこと。心の琴線にそっと触れてきてくれたものたちのことを忘れずに憶えておきたい。だから、この世界の記憶を書き続けていく。そんな思いはこれからも変わりません。なので、あらためてご挨拶。ここをずっと読んでくださっている方々にもいっそうの感謝とお礼の気持ちをこめて、いつもお読み戴きありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

+金木犀の咲く夜に

 


金木犀の香りがしてくると、ようやく十月になったのだと思います。真っ先に思い出すのは、住んでいた家の庭にあった、何十本もの金木犀がいっせいに黄金色の花を咲かせてまぶしかったこと。寝室、台所、食堂にバスルームと、家中が、花々の香りで充たされていたこと。両手いっぱいに花々をすくっては、星屑のようにまき散らして遊んだこと。  

金木犀の香りをいっそう濃く感じてしまうのは夜。昼より感覚がいっそう研ぎ澄まされる時間だからなのだと思います。会社帰り、最寄りの駅からおうちまでの道を歩いていると、そこかしこから漂ってくる。お花の香りに酔ってしまって、とてもいい気分。香りに誘われて、ふらふらと、植えられている金木犀たちを尋ね歩くので、いつもより帰宅時間が遅くなってしまう。花の香りに陶然としながら歩く夜道は、異界にまで通じているかのよう。心に眠っている、遠いところへの憧れをくすぐられて、歩き続けてさえいれば、ここではないどこかへとたどり着けてしまえそうに思えてきます。どこまで歩いてみようかなと、現実と幻想の境目を楽しくお散歩している気分です。

昨晩は、見事に咲く金木犀の木を見付けました。右のお写真です。リデルがたたずむとしたら、きっとこんな金木犀の木の下。十月が好きな理由の一つは、金木犀が咲くから。左は、iPhoneにとりつけたマクロレンズで撮影してみました。ちいさな花は風に揺れて、なかなかうまくとれませんでしたが、これが最善の一枚です^-^;
そうそう、ネットで桂花茶というのを見付けました。金木犀の花を乾燥させてお湯を注ぐというもの。いわゆる花茶。お茶葉以外のものからつくられる番外茶という分類にはいるお茶だそうです。
花を食すのは、いつもどこかそこはかとない背徳感があります。本来眼球で愛でるものを食べてしまう。禁忌を犯しているような感覚。スミレの砂糖漬けや、薔薇の花弁のジャムなど大好きなのですが、美味しいかといわれましたら、もっと美味しいものがありそうな気もいたします。そのうち金木犀のお茶を入手して、寒い日にでも淹れてみましょうか。いましばらくは、この香りを堪能しつつ、過ごす秋です。