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読書と映画の備忘録

+『ジュリアとバズーカ』

「これは彼女の注射器だ。わたしのバズーカ、彼女はいつもこう呼んでいたよ」(中略)


 彼女は笑っている。危険にさらされたとき、ジュリアはいつでも笑うのだ。注射器がある限り、何も怖くはない。怖いと思ったときのことはほとんど忘れてしまった。ときたま、縮れ毛の若者のことを思い出し、今どうしているのだろうと考える。それから笑う。花を持って来てくれて、楽しい気分にさせてくれる人はたくさんいる。注射器がなかった頃はいつもどれほどさびしく孤独な気持だったか、もうほとんど覚えていない。ジュリアは医師に会ったとたんに彼が好きになる。彼は、彼女は実際には知らないけれど想像していた父親のように思いやりがあり、優しい。彼は注射器を取り上げようとはしない。
 「もう何年もそれを使っているのに、君は少しも悪い状態になっていない。いや、むしろ、それがなかったらはるかにひどいことになっていただろうね」(中略)


 彼はジュリアに同情している。彼女の性格が傷ついたのは、子供の頃に愛情を与えられなかったからであり、そのために他人と触れ合うことができないし、他人の中で享楽的な気分でいられないのだ。彼の意見では、彼女が注射器を使うのはまったく当然のことであって、糖尿病患者にインシュリンが不可欠であるのと同じように、注射器は彼女に不可欠なものなのだ。注射器がなかったら、彼女は正常な生活を送ることができないだろうし、彼女の人生は悲惨の極みとなっていただろう。しかし、注射器のおかげで、彼女は誠実で、精力的で、聡明で、友好的だ。彼女は一般の人々が抱いている麻薬中毒者の概念とは似ても似つかない。だれも彼女のことを不品行だとは言えないだろう。


アンナ・カヴァン、千葉薫訳『ジュリアとバズーカ』(サンリオSF文庫、1981)


24時間、怖さにふるえているわけではないから、わたしもわたしのバズーカをきっと持っているはずだ。わたしのバズーカは注射器のかたちはしていなくて、もしかしたら鞭なのかもしれない、あるいは苦痛や、自傷するためのナイフ、映画や音楽や物語なのかもしれない、またあるときはいろとりどりのカプセルや錠剤、だれかがなげかけてくる視線や言葉、不可視の恩寵なのかもしれない。 


でも、それがどんなかたちでもどんなものであってもいいから、「最低限」「必要」なときにひとのかたちや精神状態を一時的にでも保ってくれるものであればいいと思う。他者にとり繕えるほどには。もしかしたら、わたしは今でもまだときどき見えない魔法、わたしのバズーカに守ってもらえているのだろうか。眠りの訪れない長い長い夜、まだひとのかたちでいられることがそのあかしだと思って、朝を待っている。


アンナ・カヴァンは、『氷』という静かで絶望的な物語を胸に秘めながら、バズーカとともに生き延びた。夭折と言われる年齢をとっくに過ぎてからもなお長い長い時を。だから、苦痛で凍りつきそうになっているすべての少女たちにこの物語、『ジュリアとバズーカ』を。氷から逃れようと走り続けている貴女、ここを読んでくれているはずの貴女、貴女が自分のバズーカをふたたび見いだすことができますように。


ジュリアとバズーカ

ジュリアとバズーカ

氷

※絶版だった作品が手に取れるのは嬉しい。それにしてもサンリオSF文庫版『ジュリアとバズーカ』の装画の素晴らしさ。ポスターが欲しいなぁとずっと思っています。いうまでもなく、サンリオSF文庫のカバーイラストは素敵なものだらけなのだけれど。