37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録


どんな言葉でも、言葉である以上読まれることを欲しているものだ、そうでない言葉なんてない。そして、言葉は他者に向かって書かれるものだ。読まれることを意識していない、読者を想定しない言葉なんてものはないよ。
このような文章でもですか? それに、たとえ流通していても読む価値のないものだって、存在する気がしてしかたがないんです。
どちらも否定されなかった。少し嬉しかった。わたしが知るかぎり、もっとも良質な読書歴と知識を有し、精巧な思考法を身につけている、あるひととの、あるときの会話。
言葉の起源にはさまざまな説がある。でも、どの説も、常に言葉は外に向かい、他者によびかけるための道具として発達してきたという。「独白」ではなく、自分の内部の声や思いを伝えるために。
内に秘められていた思いが言葉として成就したとたん、それは他者性を孕む。言葉自体に外部を指向する性質が宿っているのだから。さらに、言葉は発した主体それ自身からも独立し、自律性を獲得することさえ可能なもの。
だから、その翼にのることができれば、ここではないどこかへいつでも飛び立っていくことができる。おもいっきり羽ばたかせることができれば、どこまででも行くことができる。重力や時空さえかるがると超えて、おそろしく果てしない人間の内側の世界へと。
あらゆる言葉が自分を含めた他者との、そしてこの世界との「対話」であるよう、祈りつづけること。それを忘れてはいけない。
まだ、ここは旅の途中。




この世界はほんとうはちっとも美しくなんてない。でも、ほんのわずかな間だけ、なぜかあの美しさが目の前にあらわれることがある。奇跡のように、その美しさと同時に自分が存在するのを赦される瞬間がある。
ほんとうに美しいものを見るためには、その何倍も何十倍も、そうでないものを知っておかないといけないのだと思う。そうでない世界にとどまりつづけなければいけないのだと思う。それがどんな代償をともなうものだとしても。
そうしておかないと、それが目の前にあらわれたとき、気づくことはできない。それが持つたとえようもない崇高さの核心にふれることはできない。

だから、苦痛がどんなに深くても激しくても平気だった。まだ耐えられると思っていた。この世界のあらゆる部分が、あの美しさのもうひとつの貌であることを知ってしまったから。ときには数秒もない、或いは目の端をよぎっていくだけのそれ。とても儚くて、あるかないかの幻のような、ただ気配だけしか感じられないときもあるそれ。

不在ゆえにその存在を信じつづけたい。この意志と想像する力をもってして。