37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

石原吉郎

・瞬間

ねむる おそらくは飢餓へ充実するために ゆえにねむる 憎みつつねむる ねむりつつひきもどす たえずめざめるためにそのためにねむるねむらねばならぬ 主体を喪失するために 喪失する主体をその瞬間にもつために その瞬間に(傍点)一挙にもつために瞬間の喪失のための瞬間の獲得わたしが恒等式そのものとなるとき はじめて私は眠りに墜ちる その瞬間を瞬間としてもつために 眠る ひとつの意志でねむる。


・自転車に乗るクラリモンド

自転車にのるクラリモンドよ
目をつぶれ
自転車にのるクラリモンドの
肩にのる白い記憶よ
目をつぶれ
クラリモンドの肩のうえの
記憶のなかのクラリモンドよ
目をつぶれ

目をつぶれ
シャワーのような
記憶のなかの
赤とみどりの
とんぼがえり
顔には耳が
手には指が
町には記憶が
ママレードには愛が

そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった

自転車のるクラリモンドの
自転車のうえのクラリモンド
幸福なクラリモンドの
幸福のなかのクラリモンド

そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
町には空が
空にはリボンが
リボンの下には
クラリモンドが

・私の自由において

私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ

・痛み

痛みはその生に固有なものである 死がその生に固有なものであるように。 固有であることが痛みにおいて謙虚をしいられる理由である。なんぴとも他者の痛みを痛むことはできない。それがたましいの所業であるとき 痛みはさらに固有であるだろうそしてこの固有であることが人が痛みにおいて ついに孤独であることの さいごの理由である。 痛みはなんらかの結果として起る。 人はその意味で痛みの理由を自己以外のすべてに求めることができる。 それは許されている。だが 痛みそのものを引き受けるのは彼(傍点)である。そして「痛みやすい」という事実が 究極の理由として残る。人はその痛みの 最後の主人である、
最後の痛みは ついに 癒されなければならぬ。治癒は方法ではない。痛みの目的である。痛む。それが痛みの主張である。痛みにおいて孤独であったように 治癒においてもまた孤独でなければならない。
以上が 痛みが固有であることの説明である。実はこの説明の過程で 痛みの主体はすでに脱落している。癒されることへの拒否は そのときから進行していたのだ。痛みの自己主張。この世界の主人は 痛みそのものだという 最後の立場がその最後にのこる。