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読書と映画の備忘録

真夜中の檻

真夜中の檻 (創元推理文庫)

真夜中の檻 (創元推理文庫)

「もう離さない。逃げようたって、もう離さないわよ」と彼女は白い豊かな胸をわたしの上にのしかけ、わたしの耳たぶを噛みながら、くり返しささやいた。わたしも同じように、もう離すものかとささやいた。 彼女の魔力にわたしは魅入られたのだと人はいうかもしれない。けれども、それなら魔力でないものとは一体何だろう? 美しいということそれ自体が一つの純粋な魔力ではないか。喜一郎氏は彼女の正体を見たかどうか知らないが、おそらくかれもそれを見て、彼女の美しさがそこから発していることを知ったのだろう。喜一郎氏の孤独な愛情の深さは、そこに根をおろしていたものに違いない。彼女の正体を見たことが愛情の深い確認となったとは、まさに端倪すべからざる人生のアイロニーというべきであるが、同時にそれはまた、愛は死よりも強いことを実証したことにもなる。喜一郎氏の死はそういう希有な死であった。おそらく彼は喜んで死んだにちがいない。いずれわたしも喜一郎氏と同じ運命の轍を踏むことになるだろうが、わたしの愛の深さはそもいくばくであろうか?
(中略)
正直のはなし、彼女のいない世界はもうわたしにとっては幽霊の世界であった。わたしがそれをいうと彼女は泣いてよろこんだ。「わたし、しあわせよ。わたし、しあわせよ」と咽ぶように口走りながら、夢中でわたしの肩だの腕だの耳だの、ところ嫌わず噛みまわる彼女を強く抱きしめていくと、生きるということはこれだったのだと、わたしも声をあげて歓びに泣いていた。
平井呈一「真夜中の檻」『真夜中の檻』創元推理文庫、2000)

《「わたし」は古文書を見るために、友人の紹介で田舎のお屋敷を訪れた。屋敷の主は既に亡くなっており、美しい未亡人と静かに日々を過ごす。だが、人気のない屋敷で次々と怪異がおこり、「わたし」は逃げだそうと試みるが、心はとっくに未亡人に惹かれていた。夢ではなく、ついに未亡人と交わることになったとき、「わたし」はすでに彼女がひとならざるものであることに気付いていた…。》

わたしはひとだけれど、わたしのなかにはとうていひとではないような部分もある。 それは封印してあって、普段は決して解きはなつことはないけれど、時折そこからさまよい出てしまうことがある。たとえば、深夜一人でいるとき…そういうときのわたしは、酷く自己嫌悪にかられて、ほんとうにひとのかたちではいたくなくなって、いられなくなって、いてもたってもいられなくなる。そういうときははやくひとでなくなりますようにと強く祈る。

そういうじぶんのひとならざる部分と「彼女」がひとではない部分が重なってくる。でも、彼女はわたしとちがって、ひとではないがゆえに、なお美しく崇高で、その美しさゆえに愛されている。彼女はそういうふうにしか存在できない。でも、「わたし」にその存在を許されている。受容されている。そうおもうとなぜか胸の奥がずきんとした。

でもそうなると、檻の鍵をかけ忘れることが多くなってしまうの?もう正体をかくすこともない彼女みたいに。 けれど、もともと檻をもたない彼女とちがって、わたしはわたしの檻に鍵をかけておく。 かけつづける。一瞬の緩みも隙もないように。もし不備を見つけたら、そのときは怯まずに何度でもしっかりした檻を造る。造りなおす。

まだ、ひとならざるものではないから。ここに言葉のある場所にいようと思うから。そして、また観念や思念が肉体を超えることはないということも厭というほど知っているの。どんなに強く祈っても願っても。

…貴下の愛はいくばくたるものなのでしょうか?

いつかわたしも彼女のように野生に還る日が、言葉を失う日がきたら、尋ねてもいいでしょうか?