37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

日付は3月4日の出来事

ある春の日、わたしたちはぐるぐる歩いた。
なにかに追いつくように、あるいはその軌跡を辿るかのように。ことさら言葉を交わすのでもなく、手をつないでひたすらに歩きつづけた。いつも通る道の一区画前で逸れてみたり、足を踏みいれもしなかった小路に迷いこんでみたりして、さまよいつづけた。ふだんは足早に過ぎる花壇や植木の緑に目をとめ、閑静な佇まいの家々の外観にほどこされた意匠を楽しんだ。車道からもほど遠く街の喧噪とも無縁な白昼の住宅街は、ひっそりと静まりかえっていて、生きているのはわたしたちだけのようだと錯覚する。太陽はやけに明るく眩しく、静かに光をふり注ぐ。子供の叫声も、犬の吠声も聞こえない死んだような街をぐるぐる歩いていると、いつのまにか見知らぬ場所にたどり着いている。知っているはずなのに、知らない景色の中に移動している。いつもの光景のなかからいままで見たこともない街がゆらゆらと眼前に立ち上がってきているのに気付いて、思わず立ちすくむ。此処だとばかり思っていた場所は、何処でもなかった。歩けば歩くほど、街はどんどん知らない場所へと変貌していく。その感覚に驚いて隣を歩く散歩が好きだというひとの顔を思わず見つめながら、とても遠くへきてしまった気がする、毎日歩いている場所なのに、何処にも行っているわけではないのに、と伝えた。すると、だから、歩くのが好きなんだ、と答えのような答えでないような返事があった。
そして、また春の日をぐるぐると歩き続けた。

帰り道は独りだった。それでもどんどん歩く。なにかに追いつかれないように、あるいは逃れるように。おうちに辿りつき、ドアを開けて靴を脱いでも、まだ気持ちは立ち止まることを忘れたかのように歩くのをやめない。なにかの先へ…たとえば時間の先端へ到達するまで、ずっと。