37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

「Picnic at hangingrock」

山で何があったのかはわからないまま。それで、わたしたちは、勝手な想像をめぐらす。消えてしまったひとりの女教師と3人の少女の行方をめぐって。でも、ほんとうは、ほんとうは、ほんとうのところは今でも謎の儘。自分たちの意志で消えたのかもしれない。だれかに殺されたのかもしれない。どこかに連れて行かれたのかもしれない。彼女たちの朽ちた身体は、いまでもあの岩山のどこかに眠っているのかもしれない。
こう書いておかないと、という強迫観念にかられるくらいこの物語は、危険。事実と真実を混同してしまいそうなくらいに、蠱惑的。

だから、事実ではなく、この映画は、わたしたちの想像は、ひとつの夢。そうであってほしいというひとつのイデア。隠された欲望、美しいファンタジー。こうやって記すことができるのは、彼女たちの真実ではなく、映画を見たうちのひとりの真実。

なぜこの物語に惹かれるかはわかっている。事実であったかもしれないということを飛び越えて、なぜ誘惑されるかってことを。それは死という営みすらおこなわずに、軽やかに生から遁走してしまう少女たちの在り方、存在様式にとても親しみ深いものを感じてしまうから。美しい故に怪物的であり異形であり醜悪である在り方。ぱちんと消えることの鮮やかさ。いつまでも消えないなにかへの潔癖感(といっても、これは好悪の問題、きっと)。明確な原因が不明なままの息苦しさ、絶望感、閉塞感、不安、恐怖。

恐怖に、名づけられないもの(それはだから、ときどき崇高で、崇拝されたりもする)に、よってすでにここで何人も何人も消えていった少女達を知っている。彼方へと疾走していったのを、岩山に消えていったのを知っている。

でも、言葉で書くのは簡単。本当の本当の本当の絶望はもっと深い(はずだと思う)。書くべきことはすべて消え、言葉は去ってしまう刻がくる(おそらく)。それまではわたしは目のまえに聳え立つ岩山を、わたしの言葉で切り崩しながら登っていく。頂上に到達することに憧れながら、言葉が涸れ、物語が尽き果て、深くて冥い裂け目に呑まれる刻まで、ずっとずっと。