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読書と映画の備忘録

金曜日の晩

金曜日の晩はまたおうちにかえれない病がでて、夜遅く(それでも一杯飲んだら帰るという約束で)渋谷の猫バーに寄る。優雅な黒猫が、店内と往来を自由に行き来している愛猫家にとっては素敵な処。気が向いたら、そのつやつやした毛並みを触らせてもくれたりもする。なのに、入ってみたらいつものマスターの姿はなく年配の女性がカウンターのなかでいそがしそうにしていた。もちろんあの猫の姿もなくて。訝しんでいると、その女性はマスターが8ヶ月前にバイクの事故で即死したと告げた。そして、わたしたちはしばし言葉をうしなう。

ひとがいなくなったという話を聞いたとき、あらゆる感情が動く前に、一瞬ものすごく心が静かになる。わたしたちはきっといつなにを失ってもおかしくはない。そういう処にいることをもう一度思い知らされて。心がざわめこうとする刹那、かつてそれをわすれてはならないと誓った「わたし」を忘れかけていることに気付いてしまって。だって、心がざわめきかけるということはそれをわすれかけていたからなのだ、きっと。それを忘却しかけていた自分をとてもとても恥ずかしいと思ってしまう。

いつかはそのときまでわからないままにだれにでも必ずおこるそれ。ほとんどすべてが不確実な中で、唯一といっていいほど絶対的であるそれ。いつなにを失ってもおかしくない、それが現実、この世界、そしていまわたしがいる処。それはいちばんわすれてはいけないこと。そう誓った。でも、だからといってなにかを失うことを畏れてなどいない(もちろん悲しみはする)。 
このわたしも、そしてだれもかもやがて確実に世界から失われる。この世界から消えるときがくる(はずだ)。100パーセント断定できない、100パーセント推測でしか言葉を紡ぐことができないそれ(死から甦ったひとはいまだにいないから)。

――でも、言葉が、物語が、たぶん唯一なにかが失われてしまったということ自体を、その痕跡を、かすかにでもこの世界につなぎとめおいてくれると、物語が、その気配をまた探し出し、その軌跡を指し示してくれると信じているから、だから、わたしはこれからも物語を必要としていくだろう。生きている時間が延びれば延びたぶんだけ、いままでもよりももっと切実に、そしてもっともっと多くの、深く果てしなくひろがりつづける物語たちを。