37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

 土曜日は隅田川の花火を見に行ってきました。場所は苦手な人混みを避けた屋上にて。
 色とりどりの大輪の焔の華が咲いたあとは、ふたたびまっ暗な闇が東京の夜空を満たした。まるでなにもなかったかのように。嘘のように静かな空。でも、さっきまで鮮やかに闇夜を彩っていた花火を観ていると、M.エンデ『果てしない物語』(岩波書店)のバスチアンが、月の子モンデンキントと一緒に世界を再創造させていったときの光景を思い出してしまう。虚無に呑み込まれた世界が唯一残した世界のひとかけら。月の子のたなごころに残ったそれがかすかに息づき芽吹き、光を発し、なにもない虚無をあでやかな光の渦で満たしていった、あの世界がみごとに再生する有様。その創造でしか知らない光景を、あるはずがなかった光景を、なぜかわたしは現実に見たことのようにありありと思い出せてしまう。思い描けてしまう。とても不思議だ。でもだから、あのたくさんの花火は、わたしにとっては夏の夜に繰り広げられた天空界のファンタジア、ファンタージェン。

 そして、一発の花火の炎が燃え上がって消えるのは、まばたきするかしないかあいだなのに、その一瞬一瞬がたくさんあるので、ずっとそこに花火がありつづけるように錯覚してしまう。その不思議。
 たとえば、ひとひとりは百年生きるか生きないかなのに、あなたやわたしが種族として存在し続けていること。太古の時代から姿や形を変えながら、この生命が続いているということ。そのことを不思議だと思ったあの幼い頃の感覚が、花火を見ているとそのままに甦ってくる。
 その不思議な感覚を最初にはっきり言葉として示し与えたのは、バージニア・リー・バートン『せいめいのれきし』(岩波書店)という絵本だった。この本でわたしが生きているこの場所は、銀河のなかの太陽系の地球というふうに名づけられているのだと知り、酸素のもとをつくったのが、ストロマトライトという不思議な名前の生命体だということも、シルル紀ジュラ紀カンブリア紀といった魅力的な響きの名前を持つ時代があることも、あの美しい姿態を持つ馬の祖先が蹄がいくつもあった小さい生き物だったということも知った。そして何万年かたったある日、ついに人類がアフリカの大地に誕生する。それはこの地球が経てきた長い長い時間を一日に例えたら、ようやく夜明けの出来事にあたいするということも知った。そして、この地球で最も長い物語はこう締めくくられる。

さあ、このあとは、あなたがたのおはなしです。
その主人公は、あなたがたです。
ぶたいのよういは、できました。
時は、いま。
場所は、あなたがいるところ。
いますぎていく一秒一秒が、はてしない時のくさりの、新しいわです。
いきものの演ずる劇は、たえることなくつづき―いつも新しく、
いつもうつりかわって、わたしたちをおどろかせます。

 まだ小学校に上がる前だったわたしは、その不思議を、驚きをもうすでにありありと感じていた。それが果てしがないのは何故なのだろう、主人公として呼びかけられているわたしは何なのだろう。そのことをいまだって昔と同じように、少しも変わらずに感じている、感じ続けている。

 すべてが光り終わったあとでわずかに遅れて、こぉんというあの花火独特の音が耳を突き抜けた。びりびりと夜気が震えている。もう空にはなにも存在していないのに、その気配だけしか残っていないのに、わたしの身体も微かに震えていた。

そうか、わたし、まだ果てないままで生きているんだ、ここに(でもだからそれは何故?)。

 そう思いながら最後にぽっかりと黒い穴があいたような天を眺めつつ、屋上から降りたのでした。
 
※もしもいまから『はてしない物語』を読むひとがいたら、是非ハードカバーを手にとってください。光沢のある紅い布で装釘された表紙に、円環状に噛みあっている二匹の蛇を浮き上がらせたこの本は、主人公の少年バスチアン・バルタザール・ブックスが手にしたものと「同じ本」になっているのですよ(読んでくださればわかります)!

※『せいめいのれきし』は絵本だけど、子どもだったことがあるひとなら誰でも手にとってほしい本のうちの一冊。


はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

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せいめいのれきし―地球上にせいめいがうまれたときからいままでのおはなし (大型絵本)

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