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読書と映画の備忘録

桜庭一樹『私の男』

もう今年のベスト1に巡り会ってしまったかも知れない。

花は充たされていていいなぁ。神様=おとうさんがいていいなぁ。血の人形として造ってもらっていいなぁ。でも、神様だって自分で自分は救えない。だから、淳悟はどこにいけばいいのだろう。どこにいるのだろう。

じぶんのできうるかぎりのこと、心と血と身体、自分の全てをつかって、あんなにも世界とつながろうとしていたのに。

花だってこれから神様が居ない世界で、どうするのだろうと思ったりする。それはもしかしたらみつからない神様をさがしながら、ただ流れていくこの日々と近いのかも知れない。

でも、花は充たされているから、心の中に彼の存在がたしかにあるから、自分を生きていくことで何度でも彼=神様に逢うことができる。だから、花は生きていくことができるのだと思う。これからも、少なくとも、もうしばらくのあいだは。

淳悟がいなくなったのは、単に物語の世界にふたりで朽ち果てていく場所がなくなってしまったというだけで、花が絶望で充たされる前にまた姿を現すのかもしれないし、どこかでまた血の人形を作ろうとしているのかも知れないし。

でも、読み終わった今でも、花より遁走してしまった彼の物語の続きが気になって仕方がない。それに自分で作った人形を抛っておいて何処に行くというの。神様だって、被造物あっての神様なんだよ。

 ふたりでいることが最高の幸福だともうとっくに気付いているくせに、何故花と淳悟は離れてしまうのだろう。どうせ腐っていくのなら、腐りきるまで幸せなほうがいい。そのためには覚悟がいるけれど、いづれ果てていく生命ならそのほうがいい。
 と、ここまで書いて気付いた。気付いてしまった。ああ、そうか、きっとそうなんだ。たぶんふたりでいることが世界一幸福だと知ってしまったから、だから、それを確認するためだけに、幸福の温度をより上げるためだけにふたりは離れたんだ。宗教的に言えば、試練という言葉になるのだろうか。確かにそういう在り方もある。聖フランシスコと聖キアーラが離れていたために、その愛を確実に強めたように。 だから、この物語はものすごく残酷で、穢くて、狡猾で、それでいて美しい。それはそれは怖いほどに。だから、一度だけ一気に読んで、いまだに読み返せないでいる(でも、ムックは買ってしまうかもしれない)。

養父に、あんなに大切に、まさに花のように抱かれて育てられたのに、わたしには自分を大切にして生きるということが難しかった。自分を突きはなして、どうにでもなれ、と思ってしまう。自分のからだも、こころも、運命とかも、粗末にしてしまってかまわない気がし続けていた。気がゆるむと、別に死んだってどうってことないもの、と思ってしまう。

つないでいるおとうさんの手があたたかかった。この火傷するような熱がないと、一時も生きられない。おとうさんでわたしのこころもからだもあふれて、腐り果てそうなぐらいいっぱいに満たされていた。
 わたしにはなにも入らない。これ以上。

「嫌ってない?」
急に淳悟が、ちいさな声で言った。両目は腫れあがっていたけれど、いつもの人懐っこい笑顔で、心配そうにこっちを覗きこんでいた。わたしは一生懸命、首を振って、
「嫌ってない」
この人を嫌うなんて、あるわけがない。
「好きよ、おとうさんは、娘に、なにをしてもいいの」

私の男

私の男