そのときまで
いきたいひとがいきられないのはつらいね、とそのひとがいう。もう何度も聞いた言葉。覚えている、あのときも、あのときも、あのときだって。
そのことばをまえにして、じゅうぶんいきられるのに、ときどきそうしたくない衝動にかられ、逃げ切る自信がいまだもてないわたしはなにもこたえることができずにただ、黙ってしまう。理由がないわけではないけれど、理由なんて自分だけのものでしかないことも充分すぎるほどわかっているから。
でも、そのひとは、いきろ、とは決していわないのだった。墜ちたら間違いなく死ぬ高い場所へとよじのぼったときも、とりみだしたりはしないのだった(その高さでは死ねないと思っていたし、もちろん飛ぶつもりもなかったけれど。なので状況としては酷く穏やかだった)。ただ、望みとして願いとして希望としての言葉をなげかけてくるだけ。そう気付いたとき、呼吸がいつもより少し深く静かになった。
だれもだれかにあげることももらうこともできないものが、この世界にはいくつかあって、いま話したいそれもそんなもののひとつで。でもだからこそ、どうしようもなくて、もてあましてしまうときがあって。それはきっと酷く厭な話だろうと思いながらも、やっぱりどうしていいかわからないときがあって。
わたしの身体はまだ充分生き延びることができる。不慮の事故や、病気にさえならなければ。精密検査をしても原因が不明の微熱や頭痛は熄まないけれど、現代医療のおかげで点滴でも投薬でも好きなだけ出来るし(抑えたいときに抑えられるくらいの効果は期待できる)、適度な食事と睡眠、そこそこの規則正しい生活、定期的な健康診断などによって、かなりの確率で、この先数十年は生き延びることは可能だ。
でも、医療は対処的な方法でしかなく、精神には通用しない。それをわかっていて、処方されたとおりのカラフルなカプセルや錠剤をざらざらと飲み干す。処方箋通りに飲めば、酷く覚醒するか、昏々と病的にねむってしまうかのどちらかで、どちらであっても悪夢を見ていることにかわりはない気もする。
身体だけでここに留まりたくはない。なりたいものになれなくなるのだけは拒む。それだけはこれからもずっと変わらない。意識していないと身体は気付かずにのうのうと生き延びてしまう。だからそうなったときには冷静な判断力が残っていますようにと、ただそれだけを祈る。
それでも、歩けなくなるまでは遠くに明滅するあの指標を、だれかが残してくれた思考の痕跡をたどりながら、より外部へといきたい。未だ行きたいと思っている自分がいる。リミットまで、ぎりぎりまで、最期の最期まで(幸い、まだもう少し時間はあるのだ)。