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読書と映画の備忘録

夢について

「ひとたび眠りこんでしまうと、もはや私は自由意思で眼覚めることはできず、眼覚めを目標として見ることはできない。なにかをまえにして、それを夢とみなす力を私は失ってしまっている」(ポール・ヴァレリー「夢について」)

眼覚めることができない、と夢に関していうなら、それは可能不可能ではなく推測でしかない。ここが夢だとはっきりわかるのは常に眼覚めたあとなのだから。 ただ、目覚めたいと望むことは、ここにおいても可能なはずだ。

わたしは、まだ目の前のなにかを夢とみなす力(それはときには眼の前の何かを疑うことやそれについてあれこれ思いを巡らして創造することだったりする)をまだ失ってはいない(はずだ)。 この力がどこからか訪れ、わたしの中にとどまり続ける限りは、外の世界を信じられる。

たとえば、ここではないどこかへ行けることを信じること。そうわたしに思わせているものは、この世界からではなく、世界の外からきたものだ。 どこからか、この世界に入り込み、まだここから目覚めていないわたしのもとに届く奇跡。

いまここで知り得ないとしても、それでも「ビューティフル・ドリーマー」のさくらや温泉マークのように世界のほころびに気付きたい、あるいは、面堂たちが自家用機で世界(=友引町)を外から眺めたようにこの世界を眺めたい。

もう一度目覚めるために。
だからといって、目覚めるまでの夢を「現実」と呼ぶことを忘れているわけじゃないよ。

「夢」は語られつづけなければ。 「夢」について語ることができるかどうかわからないとしても。 たとえ、それが「夢」に対する裏切りだとしても。 または、「夢」自体に復讐されることがあるとしても。 ただ、「夢」の存在を忘れないということのために。 そして、もう一度どこかに目覚めるために。