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読書と映画の備忘録

グラマラス・ゴシップ

自意識過剰な少女たちの一群は、アイドルのようなビジュアル系の、主人公が登場する少女マンガにも、いわゆる対幻想ものの従来型少女マンガにも、かといって芸術少女趣味の系譜にも、いまいち乗り切れない。なぜなら、社会が少女として規定してくる自己と、自らが自らと意識する存在には徹底的にずれていて、そのずれを解消できるあてもなく、強烈な違和感を持て余すほかないからだ。その解消が性的な次元に限定されるわけはないし、性的な次元で居場所とやらを見付けられれば、遍在するギャップが解消出来るなどという大雑把な思考にもついていけない。物語を過剰に演じることで、少女という物語を超えるという戦略のまがまがしさにもついていけない。「等身大」に「普通」のイケテル少女を描くマンガに至っては、新しい抑圧の物語とさえ映る。「少女」という設定にのれない魂には、アンドロイドや異界の化物など異端のキャラクター設定がせめてもの慰めとなる。

1999年発行の文芸別冊『Jコミック作家ファイル BEST145』から、華不魅『グラマラス・ゴシップ』の紹介記事より抜粋。筆者に中忍氏の名前がありますが本誌にプロフィールなど詳細は載っておりません。

……でも、この紹介文があるために、捨てられない本だったりする。

少女という物語を過剰に演じきってしまえば、少女だって異形と化す。性的な次元で全てが解消できる思考をもつことができていたら、それはそれで幸せなのかも知れない。でも、同じ少女という形の器だけ与えられていながらも、結局そうなりきれず、どこにもいけなかった魂にとっては、引用した最後の一行に今でも胸がずきんとくる。

……メイクをするわたしを見ていて、まるで武装だねといったひとがいった。でも、そのとおりだ。可愛くみせるためでも媚びるためでも自己満足のためでもないメイク。勝てないまでもせめて敗退しないための、平坦な戦場に赴くための毎朝【まいちょう】の儀式。衣装は何度打たれても立ち上がるための鎧。かかとを鳴らしても何処にも連れて行ってはくれない靴だって、コンクリートに快活な足音を響かせれば、士気を充分に鼓舞してくれる。

素の儘ではいられない。かといって、素の儘でいることなんて微塵もよしとおもっていないわたしは、今朝も嬉々として、自分の顔を塗りつぶす。そもそもわたしのなかでは、少女ははなっから異形であり、怪物であり、この世に染まぬ邪悪なものと同義であったことを思いだしながら。

だから、わたしは一糸まとわぬ動物にならず(あるいはなれず)、今日も粧い、装って、戦いに行く。



それでは、今日もいってまいります。