37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

春宵綺譚

 いつのまにか、こんな処まできていた。知らぬ間に日もとっぷり暮れている。無我夢中で走ったせいだ。熱に浮かされたように走ったせいだ。俺は見事な枝振りの、ああ、それを折りとってしまったのだ。江戸一番の櫻の大木の……そうだ、この都で一番美しく気貴く咲いていたこの一枝を。この櫻を一目、見てしまったそのせいで、俺は何が何だかわからなくなって、はいってはならぬところにまで忍んでしまって、気がついたら、この一振りを手に、見つかるまいと必死で逃げて、逃げて……。大の男が、真っ昼間から櫻の大枝を手に血相を変えて韋駄天のように市中を駆け抜けたんだ。さぞかし目立っていたに違いない。平太郎は、右手【めて】に掴んでいた立派な櫻の一枝を頭上に掲げた。明るく透明な桃色の櫻花はおぼろな月明かりにも、よく照り映えておもわず眼を細めるほどだった。花は手折られたばかりの刻と変わらず見事に咲きほこり、密密とした花びらの隙間から、満月に薄雲がかかりゆくのが見えた。
 風がざわりと木々をゆらした。
 ああ、ここは何処だ...山の中か?
不意に我に返って上を見れば、木立に囲まれた夜空は猫の額ばかりの広さしかなく、辺りを見回せば、これまた薄闇の中に木々の幹が黒々と視界を遮っているのだった。枝を盗んだという心苦しさからなのか、それとも知らぬ場処で夜を迎えるのが怖いからか。やがて得体の知れぬ恐怖がふつふつと、平太郎の足もとから首筋へとはい上がってきた。
「はなぬすびとはつみではない」
「はなぬすびとはつみではない」
「はなぬすびとはつみではない」
「はなぬすびとは…」
 気がつくと、平太郎は一心にそう唱えていた。のちに科せられるであろう罪の重さ、いやそれよりも自らの良心の咎めで、体の震えがとまらない。平太郎はその恐怖をふり払うかのようにただ言葉を繰り返した。
「いいえ、いいえ、いいかげんみとめなさいったら」
 突然、虚空から力漲る声がして平太郎を苛むかのように響いていた言の葉をたちまち散らした。
春一番の若く荒々しい風が、重く爛熟しきった薄紅色の櫻花の間を駆け抜け、脆【もろ】い花びらをはらはらと散らすかのように。
 不意に少女が木立の間から現れた。たった今、泉から引きあげられたかのように濡れ濡れとした艶やかな黒髪、それとは対照的に丹朱を掃いたかのような、まろみのある厚い唇がふっとひらく。匂うようにこぼれ出た言葉は無数の櫻の花びらとなり、少女のくちからあふれでてくるかのように見えた。
「ねえ、あにさん」
 極上の銀でつくった鈴をやわらかくみずみずしい童子【わらし】の手でもって、打ちならしたかのような澄んだ声が、また春の宵闇に響いた。
「あにさん、あにさんったら」
 夢を見ているかのようにぼんやりとしていた平太郎は、その声にはっと我に返り、あらためて自分の袖をひいている少女を見た。少女は、瞬きする間も惜しいかと思われるくらい凝っと平太郎を見上げている。
「さくら、すき?」
「ねえ、すき?」
「お、おう」
 返事をせかされて頭ではなく口が勝手に返事をしていた。また、少女の紅い唇がふふっとわらった。幼い唇がかすかに開くたび、千の花びらがこぼれる。たどたどしい言葉が発せられるたび、万の花びらがあふれる。またたくまに、少女と平太郎は花びらに埋もれていく。少女が笑うたび、話すたびに。
「好きって言って」
「...ああ、」
 少女のくちからあふれ出てくる櫻の花びらにうっとりとみとれながら、平太郎は少女が花びらに咽をつまらせ苦しそうに藻掻き、死んでゆくのを見たような気がした。そのような無惨な光景を予感しても、平太郎は心ここにあらず返事をするのもやっとの状態だった。
「ねぇ、好きって」
「ああ、」
 なぜだか、今の平太郎にはそれしか言葉が出てこない。
「好きって、好きって言って」
 いつのまにか漆黒の双眸から涙を流しながら少女はあとからあとから、くちのなかにあふれてくる花びらに咽せながらも、必死で言葉を吐き出し吐き出し、平太郎に強請り続けた。だが、くちをひらけばひらくほど、言葉をしゃべろうとすればするほど、新しい花びらがこんこんと湧き出で、彼女の口蓋はふさがれていくのだった。ああ、言葉が追いつかない、追いついていないと平太郎は思った。
いつのまにか平太郎は、膝をつき、少女のか細い肩を片手で抱き、もう片方の手で懸命に少女の口の中の花びらを掻き出してやっていた。
 少女のくちから溢れる花びらは、ふたりのまわりにしんしんとつもりつもって、少女と平太郎のすがたを花びらに埋めてゆく。なにかを秘さねばならぬ様に。
「ね……え、……好き……て言……て」
「ああ、ああ、」
 間に合わなかった。平太郎が必死で花びらを掻き出してやっても、もう間に合わなかった。平太郎は、花びらを掻き出してやっている自分の指先までもが、一瞬花びらと化したように見えた。あふれ出た花びらは、ついに少女のすべてを覆ってしまった。
 また風がざわりと吹いた。
 ざわり。
 少女を覆い尽くし、少女の形となった花びらは、舞い上がり、ぱあっと散った。同時に、平太郎と少女を覆っていた花びらも、ひとひら残らず風に空高く舞い上がり、何処へかと消えていった。平太郎は、ただそれを見上げて茫然と立ちつくしていた。
 ざわり。
 風の音で平太郎は我に返った。
 …ああ、いつのまにか、あんなに大事に握りしめていた櫻の枝がない。いったい何処へやってしまったのだろう。ああ、俺は、俺は……どうして、ああ、としか言えないのだ?
 俺はいったいどうしたのだ…?
 俺の、俺の言葉は…?
 ああ、…?
 ざわり。
 風の音がやけに大きくなった。

「……ねぇ、…好きって言って!」
 そのとき、もう一度凛とした少女の声が夜気を震わせた。

「…ああ、ああ、ああ!」
 俺は…俺は…俺は…!
 ざわり、ざわり、ざわり。
 平太郎は、また走っていた。こけつまろびつ、泣きながら夢中で走っていた。気がつくと、遙か遠く、木々の間にぼんやりと町の灯りが涙で滲んで見え、あとはそこをめがけて一目散に駆けた。

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PCの整理をしていたら、2002年、春、とメモが添えてあった文章。このころ桜(直轄の領地だったらあったかも。王子とか…)を手折ることに科があったかちゃんと考証していない。10分足らずで見た夢のようなものだったから。だから、細部に神は宿らない。たぶん。