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読書と映画の備忘録

岡真理「あるいは、生きのびるということについて」

個的存在として生きる人間が、そうであるがゆえに他者をもとめざるをえず、しかし、それは他者であるがゆえになお深い孤独を抱かざるをえない、そしてまた、個的存在であるがゆえに、私たちは愛しい者が死んでなお生きながらえなくてはならない、そして、生きるということをめぐって他者と競合し、自らが生きのびるために他者を殺さなくてはならないという暴力を自らの生にはらまざるをえない。傷つきたくないし、誰も傷つけたくない。生きているかぎり、それが必然であるのなら、みんな死んでしまえばいいのに。もしも人間が植物と同じ、永劫回帰を繰り返す、ただの生命、類的存在であったなら、私たちは他者を求めることもなく、よって、孤独をおぼえることもなく、他者によって傷つけられることも他者を傷つけることもないだろう。個的存在としての自分に、自らの手で終止符を打つことができないのなら、個たる人間のすべてを、ひとつの類的存在に、自足したおのずから生成する完璧な生命体に還元してしまいたいと夢想しても不思議ではない。


だが、それがもし夢想ではなく、現実の選択肢として与えられたとしたら、私たちはいったいどちらを選ぶだろうか。孤独を知らず、他者を傷つけることも他者によって傷つけられることもなく、類的存在として永遠に生きることか、それとも暴力のただなかを個として生きることか。私たちが人間であるかぎりを必然として暴力を生きなければならないにもかかわらず、それでもなお「生きろ」という命令に、「命は生きる定めなのだ」という言葉に従うとすれば、それはなぜなのか。自らが生きのびるために友人を傷つけ、自らが生きのびるために逡巡の果てに唯一の親友を殺した十四歳の少年――それは二〇一五年に第三新東京市にいたSのことか、それとも一九九七年に震災の街にいたSのことだろうか――が、人間が生きるということの、生きのびるということの、暴力性を身をもって知っている彼が、それでもなお、類的存在として安らぐということを拒否して、この暴力のただなかへ、共約不能な他者との関係性のなかへ、個的存在として回帰してくることを、人間の運命として選ぶ、それはなぜなのか。そして、あらゆる暴力にもかかわらず、この世界へ回帰するSの命を、その生を、それでもなお讃え、祝福する言葉を私たちは持たねばならない。だが、その言葉はどこにあるのか。


答えはテクストの内部にはない。


岡真理「<人類保管計画>あるいは、生きのびるということについて」(『ポップカルチャークリティーク 0. エヴァの遺せしもの』(1997、青弓社


「人間が生きるということ、生きのびるということ、それは端的に暴力にほかならない」
このテーゼを読んで以来、岡真理というひとの思想が好きだ。この本もエヴァの評論だからではなく、このひとの書いているものが読みたくて買った。
「生きろ」という命令はときとして暴力である。
それでも。他者への呼びかけとしてそういわざるをえない、あるいは言ってしまうのはなぜなのか。ただ、「生きろ」と本能にも似た反応でそう言われてしまう時と場合があるのを知っている。自戒も込めて。とはいえ、消える、死ぬ、ということは、生きる、生き延びる、生き続ける、ということよりエネルギーが必要なのだと思い知らされるこのごろ。

「生きろ」と命令され、生きのびたさきに、なにが待っているのか、なにがあるのか。もちろんどこにも答えはなくて。それなのに、なぜ、ひとはいきる、いきつづける、わたしはいきる、いきつづけている、日々の選択として。
ねぇ、なんで?
なんでだろう。


『エヴァ』の遺せしもの (ポップ・カルチャー・クリティーク)

『エヴァ』の遺せしもの (ポップ・カルチャー・クリティーク)