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読書と映画の備忘録

夢の作法


ことさら眠れなかった過日の夜、 買っていた『日経おとなのOFF 論語入門』をぱらぱら。68ページの対談(上段)にあった内田樹の言葉を読んで、俄然眠りたくなって目を閉じる。

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よく「現実から逃避して夢のなかに逃げ込む」といういい方をしますけれど、
話は逆なんです。 人間は夢を逃れて現実の中に逃避しているんです。
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夢のほうが現実よりずっと怖い。(中略)現実のほうが夢よりつじつまが合って
いるのは、現実のほうが「作り話」だからです。
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それで夢を見たくてたまらなくなったのだった。なにか剥き出しのものに触れたくて。


実は、この記事を読む以前に、内田樹blogの「「存在しないもの」との折り合いのつけ方について」がとても素敵だと思っていた。

http://blog.tatsuru.com/2011/07/31_1703.php

(※って、いまエントリの日付と内容を読み返したら、まさにこの記事の対談の日記だった!)


そう、存在しないものだって確かに存在している。存在しないという方法で。そういう言い方や表現が今なら少しわかる。知覚の、思考の、創造力の、辺縁にちらちらと瞬くもの、気配、かすかな、でも確かなもの。

10代の終わりから不思議と悪夢しか見なくなっている。明晰夢も一度しか見たことがなくて、逃げ出せない夢を見るのがつらいときもある。身体的にも精神的にも。現実で起きたことと、夢で起きたことは、わたしの内面ではしばしば同じ質量をもってしまうから。それでも大事なのは、夢から目をそらさないこと。存在しないものと出会うために、触れ合うために、夢を見続けること。或いは夢を見るという作法そのものを忘れないこと。

もうひとつ。夢は眠っているときだけに見るものではないということ。醒めながらだって夢を見る方法はたくさんある。たとえば、無数の物語、映画、音楽、詩、絵画、漫画、アニメーション――表現されたあらゆるものたちに触れることは、夢を見ることに等しい。それを教えてくれたのは、いつもあなたやあなたやあなた、わたしではないだれかだった。そして、醒めているときに見るなら、選択できるから悪夢を見なくてすむこともわかってきた。


いつも、醒めながら夢を見つづけていたい。
存在しないものたちの気配を感じていたい――だから、眠る。眠れなくても、眼を閉じる。存在しないものたちのことを忘れないために。




内田樹blogにおいて云われている「ゲートキーパー」なるもの。漏出を防ぎとめるもの。

わたしにとってそれは言葉、たぶん。正確に言うと、防ぐのと崩壊するのとの両極性を帯びているもの。よく言われる、毒も使い方しだいで薬になるのと同じだ。

言葉をつむぐ作業は、また夢を見ること、或いは見た夢を思い出して書きとめる事と、とてもよく似ていると思う。こう書こうとおぼろげに考えていたものが、思いもよらないものに変容していったり、とりとめなくかきだしたものが、知らず知らずのうちに予想もしない形をとり始めたりするから。

わたしがまだ生きて存在できているのは、起きてしまった災厄より「起らなかった災厄」のほうが多いからなのだ、きっと。それは、考えただけでも気が遠くなるような、無限回避の連続。絶望へといたる回路を、それつづけている数。

数えることはできないけれど、想像することはできる。気配を感じることはできる。けっして知ることはできない、けれど確かにあった無数の奇跡の痕跡のことを。