37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

+*謹賀新年*2013*+



あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。ここを読んでくださっているみなさまにとって、よき一年となりますように。わたしのなかに流れているのは、確かに神官家の血脈なのだそうです。畏れおおいながらも巫女の末裔として、新年の言祝いを申し上げます。


年末はいつも一年の疲れがでるせいでしょうか。お仕事もないとそれをよいことに、熱がでて数日は寝こんでしまうのが恒例。それでも、ただの熱ですもの。やがて治まるでしょう。大丈夫です。こんなことさえ、いつもどおりです。今年も去年と同じようにご挨拶できること。それは、とてもとてもうれしいことです。


書くことだけが君を救う、と言ってくださった方がいました。救われる? 何から何に? 救われる、救う、という言葉の意味がいまだによくわかりません。小さい頃からずっと考えているのだけれど。でも確かに、書いているその瞬間だけは心が充たされているようです。ここにいながらにして、どこにもいない瞬間。たとえば、打たれた痺れで意識が飛ぶときのように。肌を切り裂く痛みで思考を奪われるときのように。高熱で何も考えられないときのように。タナトスの闇に、深遠に引きずり込まれそうになったときこそ、君は書けばいいのだと。ならば、言葉はわたしにとって魔法なのだと今年もあらためて思います。それがとりとめのない日記だとしても、その間だけは恐怖の手をすり抜けて自由に存在できるのならば。それは真実。


頭でばかり考えてしまうわたしは、感じたことを言葉にするのにかなり時間がかかります。そうは見えなくても本当に自分が思ったことを、すぐにはきちんと話せなくて。かたちのない思いが言葉として出力可能になる前に、身体が反応してしまって、熱がでたり頭が痛くなって何もできなくなったりしてしまう。それは悲しいことでも、愉しいことでもそうだったりするのです。マイナスにもプラスにも神経が昂奮するのにたぶん弱い。落ち込んだときに食事が喉を通らなくなること、遠足の前に必ず熱がでてしまうようなこと。言葉ひとつで堕ちることも昇ることもできるような、そんな状態はときどき酷くこたえます。いまだって朝が来るのは奇跡のようです。


でも。昨年に、たとえ息絶えるようなときがきたとしても、自分のうたを最後までさがしつづけると、忘れないと誓った。そう誓った分だけは、つたないながら去年から今年までの道のりを歩きつづけることができたようです。そうして、今年もあらたな年を迎えることができました。まだ、うたはみつかりません。さがしつづけます。みつけたと思えば、それはいつもてのひらをすりぬけていく。わたしにとって、それはそういうものです。だから、とても大切なもの、永遠に尋めゆくものなのです。いつもここをよんでくださっている貴方、貴方はもう貴方のうたをみつけることができたでしょうか。


言葉を理解し、文字を認識できるようになってから、数え切れないほどの言葉や物語という魔法にわたしはささえられつづけています。生きているかぎり、これからまたどんなに揺れ動くとしても、それはきっと変わらない。だから、いただいた言葉を胸に刻みつけて、今年もここで文字を紡いでいきたいと思います。たぶんこれからも何度も振りほどこうとするこの手を、最期までずっと離さずにいてくれる言葉や物語たちにむけて。それが昨年の誓いにつけくわえる今年の誓いです。祈りを込めて。

2013年1月3日 あおい拝


photo by aoi,fall into a beautiful dellision