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読書と映画の備忘録

深く息を吸って

深く息を吸って

そしてわたしは書くことを選んだ。(中略)
 だから敢えてやってみようと思うのだ。“語る”ということを。恥じらいや激昂、怒り、苦しみさえもともなって語るということを。書くという感情は、人を殺すときのそれに似ている。腹の底からのぼってきて、喉元でいっきにあふれ出すのだ。まるで絶望の叫びのように。
(アンヌ=ソフィ・ブラスム、河村真紀子訳『深く息を吸って』早川書房、2003)


感性だけで生きるのはだめ、絶対にだめ。 弱いから? 脆いから? いいえ、もっとはっきり甘えているのだとお言いなさい。 感性だけで生きるつもりならば自分よ、呪われろ。感性を否定しているのではないの。 それに苛まれて、たとえ殺されてしまうことがあっても。だったらそれはむしろ誇らしい。忘れてはいけないのは感性だからこそ捕まえることのできた感覚、それを言葉にしていくこと。その作業を怠ってはならない、生きて在ることを怠ってはならない。いまここに在るあいだは、まだここにいるあいだはいけない。「書く」「語る」「求める」、その意味を探りながら、言葉を探しながら、そのさきにかすかにしか見えないものを追いかけ続ける。 この作業があればこその、感性の鋭さ(でなければ意味なんてない)。それをしないで、感性のみで生きていてもなにも見えない(それはとても苦しい)。
でも、言葉はいつも新たな世界をみせてくれる。言葉によって、世界はいつもあたらしく生成されていく。 あらたな秩序を発見する。何通りにもわたる世界の見え方が立ち上がってくる。顕れてくる。
その美しさにわたしはいつも心を打たれ、言葉さえ奪われて立ちつくします。
そして、その失われた言葉を取り戻そうといつも必死でいるのです。
想像を超えたなにかに打たれた体験を、言葉にしてもう一度呼び戻す行為、
それこそがわたしにとっては生きているということなのでした。

作家でもなく、詩人でもないけれど・・・それでも、いつもその行為を欲していている自分を知っている。 呼吸や夢見ることが無意識下で行われるのと同じくに。