37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

この世界にあるのはいったい何なのだろうか?
存在しているもの、そして存在しえないものとは何なのだろう?
何を指し示すのだろう?

語ることで、書くことで、貴下に何を語り得るのだろう?
何を伝えることができるのだろう?
たとえ、何も変わらないとしてもわたしは貴下に語りたい。
そうして、ありったけの言葉を尽くし、力を尽くし、
物語を創造し、新しい世界を生成するために。
無限に広がりゆく外側へと、可能な限り開いていくために。

原体験と呼ばれるもの、現在のわたしがこう在る最初の記憶。
それを語りたい。
それは、世界はどうしてこうあるのだろう、という最初の記憶。
生きていることの、そのたった一回性の不思議と怖さを感じた、最初の記憶。
どうしてあのときそう思ったのか、それも不思議なの。
あのとき、その思考がわたしに宿ったから、わたしはこう在る。
でも、その思考がどこから来たのかは、わからない。
永遠にわからないかもしれない。
でも、それでも、心の中にしかわたしの世界はない。

語ると言うこと。

感性だけで生きるのはだめ、絶対にだめ。
弱いから? 脆いから?
いいえ、もっとはっきり甘えているのだと認めなければいけない。
感性だけで生きるつもりならば自分よ、呪われろ。

感性を否定しているのではない。
それに苛まれて、たとえ殺されてしまうことがあっても。
だったらそれはむしろ誇らしい。

忘れてはいけないのは、感性だからこそ捕まえることのできた感覚、それを言葉にしていくこと。その作業を怠ってはならない、生きて在ることを怠ってはならない。いまここに在るあいだは、まだここにいるあいだはいけない。
「書く」「語る」「求める」
意味を探りながら、言葉を探しながら、そのさきにかすかにしか見えないものを追いかけ続ける。

この作業があればこその、感性の鋭さ(でなければ意味なんてない)。
それをしないで、感性のみで生きていてもなにも見えない(それはとても苦しい)。

でも、言葉はいつも新たな世界をみせてくれる。
言葉によって、世界はいつもあたらしく生成されていく。
新たな秩序を発見する。
何通りにもわたる世界の見え方が立ち上がってくる。顕れてくる。
その美しさにわたしはいつも心を打たれ、言葉さえ奪われて立ちつくします。

そして、その失われた言葉を取り戻そうといつも必死でいるのです。
想像を超えたなにかに打たれた体験を、言葉にしてもう一度呼び戻す行為、それこそがわたしにとっては生きているということだった。
いつもどんなときでもそうだった。

作家でもなく、詩人でもないくせに・・・その行為を欲しているみたい。
ここに在る限り、息をするように、いつも。

死ぬのは怖くない。
死ぬのは怖くない。
怖いのは生きているほう。
ひとつの未来しか、選び得ないということ。
いまここにあること。
その恐ろしさに耐えられなくなったとき、わたしは死ぬ。
まだ、生きているのは、それはまだ語りたいひとが、伝えたいひとがいるから?

感覚を、いまここに在るということを言葉にしていくということ。
語るということ。
生きていくということである人種が間違いなく存在する。