37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

ヴァニラ画廊・ラヴドール展

 このあいだ、といっても6月の末、会社帰りに念願のラヴドール展へ行って参りました。銀座の街を弓生おねえさまに案内していただきながら、ヴァニラ画廊へと向かいます。古めかしいビルのやっとふたりが入れるような狭い狭いエレベータにはしゃぎながら、辿りついた一室は人気がなく(画廊の方ふたりとほぼわたしたちだけ)、生きているわたしたちよりも、息づいていないもののかずのほうがはるかに多い。呼吸するわたしより明るい顔立ちで立ち並ぶ静謐な女の子たち。どのこもどのこもカスタムメイドだけれど、ちゃんと表情があって、どこかにいそうで、でもきっとどこにもいない顔をしている。画廊の人はとても親切で、そちらからお誘いいただいてドールに触らせてもらう。彼女たちの重たさ(ほんとうにその年代の人間の女の子くらいあるのだ)と膚の冷たさに驚き、あたたかくて重たいものよりも、その存在をなぜかリアルに感じたりもした。
 お買い上げの時、社長は結婚指輪とともにドールを送り出すそう。そのはなしにときめいたけれど、ときどき、とても酷い状態で帰ってくるドールがいると聞いて(ドールが不要になったとき、会社に返送できるシステムになっている)、それはそれで胸が痛いのだった。 
 今回、どうしても見に行きたかったのは「夜想31 マヌカン」(ペヨト工房、1993)に掲載されていた「ダッチワイフのもう一つの貌」がずっとずっと忘れられなかったから。これをはじめて読んだとき、どう言葉にしたらいいのかわからない感情に襲われて茫然としてしまった感じがいまでも、わたしにはある。
 それに書かれていたのは、もともとオリエント工業のラヴドールは、健常者のためではなく、生身の女性をパートナーとして得づらいひとのために造られたのが発端だということ。その欲望を処理するのには、手でも口でも駄目、女性が身体を与えても本当に愛情がなければ、やっぱりうまくいかなくて、母親が覚悟を決めて、あるいは地獄のような気持ちで(あくまでも射精のみを目的に、決して近親相姦ではない)身体を使ってもそれでも駄目なのだということ。それで、その欲望を解消するのにダッチワイフが最善ではないのかということ…などなど。
 ここに語られている物語は、わたし自身の境界線を揺さぶり、壊す。そこで語られていた、性器を使っても愛情がないと完全に満たされないのだという不思議、人間の感情の底知れなさ、恐ろしさ(理由がないから……理由がないものは、常に恐ろしい)。 

 でも、ドールを、生身の女性の身代わりとしてではなく、ドールそのものとして愛してもらえるケースがあるそうで、それはそれでとても素敵だと思う(いつかのユリイカにもそういう記事がありましたっけ)。
 もうひとつの目的の南極一号(南極隊員のために開発されたという代物で、ゴム(?)の袋状のもの)の展示がなかったのは残念だったけれど、これで性欲を満たせるのなら、人間の想像力って、素晴らしく、そして畏しい。ドールをドールとして愛せるのも、その想像する力があってのことだもの。