37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

夕方だというのに、まるで沈むのを忘れているみたいな太陽が膚を刺すように熱い午後、念願のジョック・スタージス展へ。駅からすぐちかくの不思議な小道の一隅、それこそひっそりと通り過ぎてしまうようなところに、ギャラリー「ときの忘れもの」はありました。
 さっそく中に入って、写真を見る。ギャラリーの方に、写真がヌード村(?)のようなところで撮影されたものだとうかがった。きらきらした目で、髪を風に嬲られながらたたずむ全裸の少女たち。連れだっていったひとが「警戒心が全然ないね」といったのはまさにそのとおりだったよう。
 写真の女の子たちは、一糸まとわぬ姿でもごくごく自然、伸びやかな肉体は、健やかな生命力の象徴としてただ純粋に美しい。エロティックさや特有の危うさが全然なかったのには、反対に驚いてしまう。脱いでいなくてもカメラを前にして構えてしまうことは必ずあるはずなのに、恐ろしいくらいに無防備で邪気がない。写真を眺めていると、衣類を纏いつづけるこちらのほうが異端かもしれないとどきりとさせられた。そういうとき、わたしは遠い遠い昔、あの禁断の実を確かに食べたのにちがいないのだと思い知らされる。それで、わたしたちはこちらがわで息を潜めながら、不思議な距離感をもって写真のなかの世界をそっと覗き見ていたのでした。 

 人が纏っていたものを脱ぎ捨てて剥き出しになるとき(それは形而上でも形而下でも)、気持ちが開放的になっているのか、それともより警戒心がより募っている状況なのか、それは自ら脱いだときと強制されたときとではまったく違うはずだ。ただぼんやりと剥き出しの人を眺めているだけではわからない。事実は一つでも、真実は無数にあるのだから。
 でも、スタージスの写真は開かれた肉体と同時に、そうであるのが自然な世界をも写真に写し撮ってかいま見せてくれる。写真を見るこちら側までも、自ら剥き出しにさせる力が彼の写真にはあるよう。いまだにあの写真を前にしたなんともいえない不思議な感じが消えない。
 
 ギャラリーをでたあとは、アイスティを飲みながら本の話を思う存分にして、なんとも充たされた午後を過ごしたのでした。