或る春の日に
あおいさん、
不意に名前をよばれてびくっとする。ほとんど名前を呼ばないひとだから。
人間はね、ほんとうはね、なにをしても自由なんだよ。
人間は自由だ。
そのひとはそういいながら、お皿のボンゴレスパゲティをくるくるフォークにからめとった。うつむいていたので表情ははっきりと伺えないけれど、赤ワインで頬が少し上気している。赤いギンガムチェックのテーブルクロスがなぜか眼に染みた。生温い春の夜の神保町。風が強かった日。
人間はね、死んだら、なんにもないよ。
なんにもない、なーんにもない。
目を伏せたままスパゲティを食べ終えながら、そのひとはそういった。最後は消え入りそうな声で、何度も何度も、なにもない、死んだらなにもない、といいながら。ワインを飲み終えてしまったわたしは黙ってそれを聞いている。何もいえなくて。あるいは何を言っていいかわからなくて。でも、その言葉に微笑しているだけで、それだけでよかった。わたしも、そのひとも。
最寄り駅を降りた後、ふと夜空を見上げると星も月も見えない暗い日で。それがなんとなくうれしくて、
なにもない、なにも。なーんにも。
と、繰り返しつぶやきながらおうちへと、いそいそと歩いたのでした。