37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

魔法

つづく本文に、あらゆるバリエーションで描かれている発作のもろもろの症状は、かなりの部分あてはまったし、その表現の一つひとつ、その描写の一つひとつに、そうだよ、そういうふうに閃光が視えるんだ、そういうふうに脱力感は襲うんだ、頭は痛むんだとうなずいた。助けられた。それがことばに変換されていることによって。正体不明のものが、理解可能なものになった。ならば、共存することもできる。危懼【おびえ】は薄れる。痛みはそのままだが。それからぼくは、なぜ、ぼくが内部からの崩潰にさらされたのかを、ことばで書いた。理由がわからないから、ことばで書いて、探求した。


なぜ世界は敵意にみちているのか、その理不尽さを問うために、ことばをさがした。自分のからだが崩潰する意味、意味、意味、意義というか真意、あるいは無意味性。なにかの輪郭をあきらかにするために、ことばをさがした。光彩はふいに襲いかかり、ぼくをたたきのめす、壊し、自滅させ、そして無意味に立ち去る、これが世界なのか? この理不尽さが? ありったけの語彙を……言語力を動員して、ぼくはことばに没頭した。それは問いであり、それに対する自答であり、つまり「対話」だった。日誌のように、その「対話」を日々、綴りつづけた。


――古川日出男『アビシニアン』(幻冬舎)より


書くこと、綴ること、語ること。そうして文脈を、物語の流れを作り、際限なく拡散しとりとめもなくほどけていくこの世界を、毎日を、自分を、記録すること。苦しみを喜びに摩り替えるのではなく、苦痛は苦痛のままに、喜びは幸福のままに、すり抜けていくこと、通過していくこと。或いは、そうなるように、世界の文脈を自然につくりかえていくこと、しなやかに撓めていくこと。

決して気づかれないまま、秘めやかに成し遂げられてきたそれ。言葉として、物語として、外部から常にわたしになげかけられてくるそれ、無意識下で見事に変容をなさしめるそれ、それらを魔法と呼んでもいいだろうか。