37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

kotoba

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ことばは、名づけ得ないものであったなにかの墓標、痕跡、気配。ことばはことばとして成就したとたん、うしなわれるなにかを孕んでいる。ことばそのものの宿命として。日々、わたしのなかで生まれては死んでいく「なにか」。死に絶えてしまいそうになっている「なにか」、指示語でしか表現できないものたち。

消滅は絶対の帰結。その絶対性に比例する衝動が文字を綴らせていく。
その力さえいまは弱まってしまっているけれど。

でも、知っている。
唇を硬く結んで、沈黙を抱え込み、底の底まで潜っていけば、いつしかことばは甦ってくる(ときに詩に変容を遂げたりもする それを信じて)。
この世界と対峙する道のひとつとして。


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心がうちくだかれるほど、身体がばらばらになるほど、美しいものに引き裂かれつづけたい。もとめつづけていたい。
生きながらにして、この世界を閉じていくことだけはないように。閉じながら、ただ生きつづけることだけは許さないように。


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夕暮れからほとんど猫はうごかなくなっていた。たぶん公園ですごす四度目の冬。高齢のアビシニアンに、この寒波はこたえた。わたしはずっと抱きつづけた。温めつづけた。わたしの肉体が猫の寝床だった。ずっとそうだった気がする。アビシニアンのからだがこわばる。わたしは離れない。アビシニアンの口から、甘いにおいがする。わたしは予感に慄えるが、悲しみはない。わたしたちは充実して生きた。どこに不幸がある?どこに悲しみが?わたしには悔いはないし、もちろん、猫にも。朝、日が昇るまえに、猫の鼓動はとまった。

わたしは森をでる。

あなたがいなくなったら、森を出て行かねばならない。あなたがいない森にいることはできない。あなた自身が森そのものだったから。
あなたの記憶、あたえてくれたものすべてをこの肉体に溶かし込んで。(でも、ほんとうは、一緒に呼吸がとまればいいのに)

「わたしたちは充実して生きた。」「どこに不幸がある?どこに悲しみが?」

ねぇ、なにもなくって、なにものこらないのなら、ならば、ええ、だから、とてもかろやかです。身も心も。充実して生きた記憶さえあるならば、一瞬から永遠へさえも、いともたおやかに跳躍することができるはずだもの。

充実して生きること。たやすいようでなんとむずかしく、それでいて単純なことでもあるはず。無数の回答が用意されている問いを、両手でかき抱きながら眠る今夜。そのときがくるまで、充実して過ごすことを「アビシニアン」なるものと約束しながら。



アビシニアン

アビシニアン