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読書と映画の備忘録

+Collateral Murder、だから目をそむけない

――『ジュリアン・アサンジ自伝』を読んだときに


コラテラル・マーダーと名づけられた映像を見る。ウィキリークスにリークされ、編集された映像。イラク戦争のときの機密映像で、米兵が上空から攻撃したのが、民間人か否かで世界中の耳目を集めたもの。


米軍の主張は、市街を歩く彼らがロケットランチャー(RPG)をもっていたとし、敵だと認識、攻撃。のちに、それは武器ではなくロイター記者のもつ望遠レンズ付きカメラだったのだと判明する。傷ついた彼らを助けようと止まった民間人の車も、米機はつづけて射撃する。


血の海のなかをひとがのたうちまわっている映像は、見ているだけなのにとても悲しくて凄く痛い。この生々しさに比べると、戦争映画や多くのドキュメンタリーでも、そういった場面は、ちゃんと「みせる」ように、あるいは「みることができる」ように編集されているのだなと思う。


でも、あれがカメラではなく、反対にロケットランチャーだと編集されていたら。そう信じてしまうよね。いちばん恐かったのは、そういうことだったりする。編集の力、情報操作の威力。わたしたちの脳は、ほんとうにだまされやすい。それもいつも忘れないようにしておきたいこと。


もうひとつ。こういったものに触れるだけでも、明らかな抵抗感や拒否反応を示すひとたちがわたしのまわりにはいる。そういう相手が、むこうからたずねてくれたときだけ、何を見ているのか読んでいるのかを普通に答えはするけれど、それ以上のことはしない。そういうひとたちがこういったものに触れて夜眠れなくなったりするのにも、なぜかとても違和感がある。上手くはいえないのだけれど。


でも、あの市街地で米機に撃たれ血の海のなかで苦しんでいたあのひとが、もしくは攻撃した米兵が、わたしだったら、わたしの愛するひとたちだったら。そう思うと、目をそむけたりなんかできない。見ないでいることなんて、できなくなってしまう。恐い夢を見て、真夜中目が醒めてしまうとしても。


何の根拠があって、いま立っているここが安全で大丈夫だなんて、思えるのだろう。どうして。明日、たくさんの血が流れてもなにかが飛んできてもぜんぜんおかしくはない、ここもそういう世界。たまたま、わたしやわたしの大好きなひとたちが、あの撃たれたひとや撃ったひとではなかっただけのこと。だから、目をそむけたくない。ちゃんと見て知って考えたい。なにもできなくても。

そうか、わたしにとってこれは、そもそも拒否をする、しないという選択肢がある問題ではないのだった。それがいろいろと感じてしまう違和感の正体なのかな。


どんなに痛くても目をそむけないこと。考えるのをやめないこと。たとえば、あれがもしRPGだったらということについて、そしてそれが結局はカメラだったことについて。

知りつづけること。あったことをなかったことにしないこと。声高に何かを主張するのではなく、そっと冷静に、冷酷に。世界中のあらゆる場所で起こりつづけていることについて。わたしができるささやかなこと。そして、あなたにもできること。


※補足:ウィキリークスのシステムでは、運営側でもリークした人物を特定できないようになっているという。ただし、この映像をリークしたとされる人物、米軍情報分析官ブラッドリー・マニング氏は現在、米軍基地にて「非人道」的な環境にて拘束中とのこと。

※補足 その2:Collateral Murderの映像は検索するとYouTubeなどですぐ見つかります。


ジュリアン・アサンジ自伝―ウィキリークス創設者の告白

ジュリアン・アサンジ自伝―ウィキリークス創設者の告白