37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

+ねむるまえの、ちいさなものがたり


ひとつだけ、お願いを聞いてくれるのなら。

彼の前に座りこんで、張りつめた表情の少女が消えそうな声でいう。

おはよう、という言葉をわたしのセカイから消しさって。

彼はだまって少女の髪をなでる。何を考えているかはわからない。彼には顔がないのだから。髪をなでていた手が少女の顔におりていき、指で瞼をそっとなでた。そのやさしい指の動きにあわせて、彼女はすっと双眸を閉じる。

この手はとてもあたたかい。
口にはださないが少女はそう思う。そのまま指は少女の頬をすべり、一度そのくちびるを閉じるようになぞった。その次に、眼を閉じたままの少女のくちびるにふれたのは、指よりも熱く柔らかい肉の感触だった。少女は動じずに静かにその感触を受けいれた。永遠のように感じる一瞬、少女のくちびるも熱く燃えて、焔になった。

彼がふたたび少女の頭を撫でる。撫でながら、やさしく自分の膝に押しつける。なすがままに、彼女は彼の膝に頭をもたせてそのまま眠りにおちる。

もう目覚めなくてもいい?

尋ねおわる前に眠りが彼女の思考を奪っていった。彼女の魂が夢の底にさらわれて行くのを、彼は見送る。見送りながら、なにかをつぶやく。その意味をわたしたちは永遠に理解できない。彼女でさえも。それは人間が話す言葉ではないのだから。でも、その低い唸り声が祈りであることが少女にはわかった。

少女は、本当にその言葉から逃れることができたのだろうか。彼は約束を守ったのだろうか。ここで、この物語は閉じる。彼女の世界にふたたび朝はくるのか、それとも永遠に眠っていられるのかどうか。その結末をわたしたちが知ることはできない。

でも、彼女は夢のなかで思い出す。彼が、頭を撫で続けてくれたあの感触、膝にもたれたときの心地よさ、くちびるが燃えて一つになったときの永遠とも思える安息のときを。魂のおくつきに刻み込まれたそれらの聖痕を彼女が忘れることはない、絶対に。

わたしたちにわかるのは、ただそれだけなのだ。