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読書と映画の備忘録

+5月の薔薇を想いだす夜に

  

冥い森のなかをのぼりきったところで、視界が開ける。不意に顕れる、色とりどりに咲き乱れる薔薇の海。まるで秘密の花園のようです。そんなひっそりと謎めいた立地のお庭を堪能してきた5月の或る日。


ある週末、TLで教えていただいた生田緑地のばら苑へいってまいりました。黒い薔薇模様の日傘も持っていったけれど、暑くもなく薄曇のよい日でした。秋も楽しくはあるけれど、薔薇は五月がいちばん美しいと思います。最初はあまりにも綺麗な庭園のたたずまいに、眼と心を奪われてただひたすらふわふわと歩きました。ときどき立ちどまっては、花に顔を近づけなどして、それぞれの繊細な香りを楽しませてもらいながら。

歩きながら、何年も前に読んだグルニエのエセー「ケルゲレン諸島」の一節を思い出す。グルニエが、街を散歩をしていると、どこからかすばらしくかぐわしい花の香りが漂ってくる。花の姿は見えない、壁の向こう側だから。グルニエは、そのすばらしい香りを楽しみながらこう思う。この花を閉じ込めるひとたちの気持がわかりすぎるくらいにわかってしまうと。

静かに薔薇が咲き乱れる小道を歩いていると、この園はグルニエがその外を歩いていた壁の内側なのだと思う。ほかのひとにはなかなか理解してもらえない精神の一部分。だからこそ、土足でむやみに他者を立ち入らせてはならない場処。でも、そのような侵しがたい領域が自分のなかにあるからこそ、他者と真に交わることが可能になる、そういうもの。それはわたしだけではなく、おそらくだれもが心の奥に秘めている場処、たとえば聖域と名づけたくなるような。

以前は、胸がしめつけられるくらい好きな本や映画があれば、それを知っているだれかと対話したり、どう感じたかを共有してみたいと思っていた。それは同じ感想や感じ方ではなくてもかまわない、ただその作品に触れたわたしではない誰かがどう思ったか知りたかったりする気持。もちろんそういう出会いがあれば、いまだってとても嬉しいし、そうして他者と触れ合いたいという気持が薄れたわけでもない。
でも、いまは、そうではない歓びも知っている。だれもその作品を知らなくても語らなくても、ただひそやかにその作品を愛すること。愛しつづけること。くりかえし直に触れながら、読んだり見たり聴いたりする、その行為そのものが歓びであるようなこと。自分にとってそういうひそかなものがあるならば、それはきっと一番大事な宝物。


薔薇のアーチをくぐり薔薇の海のなかを泳ぐように歩きながら、わたしはすでにそういうものをいくつか見つけてしまったのかもしれないと思って、すこし慄き、もっとそのような宝物や秘密の場処を探したいと願ってみたりする。いましばらくは、まだこの世界と戯れていたくて。

明日はこの世界で何をして遊びましょうか、宝物をさがしながら。

季節は四月か五月だった。路地がまがっているかどのところで、ジャスミンとリラのつよい匂いが私の上にふりかかってきた。壁面にかくれていて、花は私には見えなかった。しかしその花の香を吸うために、私は長く立ちどまっていた。そして私の夜は、その匂いで香ぐわしかった。自分が愛する花をそんなにひたかくしにかくしてとじこめている人たちを、私はどんなに理解したことだろう! 愛の情熱は、そのまわりに要塞をめぐらそうとする。そのとき私は、あらゆるものを美しくする秘密をあがめた、そうした秘密がなければ幸福はないのだ。
――ジャン・グルニエ/井上究一郎訳「ケルゲレン諸島」『孤島 改訳新版』(筑摩叢書、1991)