37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

桜庭一樹『ブルースカイ』

「わたし、あなたの、願いを叶える」
クリスティーネは落ち窪んだ瞳でわたしを見上げた。わたしは続けた。
「もっと、ずっと幼いころから、わたしはあなたに敬意を感じ続けてきた。あなたの美しさと善良さに憧れていた。わたし、約束する」
「マリー……」
「わたしは、いまこのときのあなたのことを記憶しない。あなたは、もういない」
(中略)
「わたしはずっと、あなたが美しい若い女だったことだけを覚えている。ただ、それだけを。昔のことだけを。善いことだけを」
倉庫の中に香りが満ち、青く、夜を焼き尽くすほど激しい月光が窓から、開け放たれた鉄の扉から、わたしたちの上に煌々とと降り注ぎ始めた。
「わたしは長生きする。そしていつの日かとつぜん大人の女になり、こどもを産んで育て、でっぷりと太って、最後にはしわくちゃのおばあちゃんになってしまう。そのあいだずっと、わたしはあなたのことを忘れない。約束する。年老いていくわたしの記憶の中で、かつてのあなたはけして死なない。あなたの変化も穢れも裏切りもその世界には存在しない。約束する。クリスティーネ、わたしは約束する」

――桜庭一樹『ブルースカイ』(ハヤカワ文庫、1995)