37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

+たとえば、『今夜も夢見るように眠りたい』

       


夢とか 眠りについて書いていたら、むかし見た映画を突然また見たくなった。或る日曜日、微睡みながら見た『夢みるように眠りたい』(林海象監督、映像探偵社、1986)。こういう映画をスクリーンで、オールナイトで見たい。眠れない夜になんとなく流したくなる映像作品はいくつかあって、これもそんな夜にぴったりだと思う。


一度見て、とても好きになった。うつろいながら失われていく時代やものたちを冷静に見つめていながらも、そういった儚いものへの優しいまなざしを感じる映画だったから。邦画作品オールタイムベストの一本。浅草十二階を模した仁丹塔が、映像として残っているのもとても嬉しい。
せっかくだから、明日は、真っ白い茹で卵でもつくっていただきましょうか。



「これは、すきなひととだいきらいなひと、どちらかしかいない映画」
「だとしたら、それは良い映画なのですね、きっと」

夢みるように眠りたい [DVD]

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+すこしのあいだ


ひとのかたちでいたくなくなったので、 しばらくのあいだ、ひとではないかたちで過ごしてみる。ひとではないのだからその時間だけは、思考を止めてもいい。 そういう時間をつくるための武装。マジックアイテム。あるいはお守り。許されるための免罪符。


わたしにとって、猫耳はそういうものでもあるのです。ほんのすこしのあいだだけでも、こわいこともなにも考えなくてもいいことにする時間のためのもの。つけていると、アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』という物語で、スージーという女性がいつもくまのきぐるみのなかにいるということを思いだす。


垂れている猫耳がほしかったのだけれど、これでは猫というよりケモノ耳?
しばらくつけていたらすこし落ち着いたので、にんげんにもどってまいりました。

+……夢のくせに。夜に見たものの話。


こんな夢をみました。

ベッドで寝ていたら、中年くらいの中肉中背の、 作業着みたいなオーバーオールを来た男性が、そばに2人たっていて、手に持っている電動チェーンソーで、嬉々としてパジャマを着たままのわたしの四肢を切断しはじめました。あまりにも唐突だったので呆然としながらも叫びました、夢の中で。

「ええっ、これ夢ですよね、夢でしょ?」
「夢だけど、怖いでしょ、痛いでしょ、ほら」

と、ますますにこにこして、わたしの身体を切っていくのです。手首や足首、ひじ、ひざなどの関節ごとに斬っていたから、一本の手足で何度も楽しむのね。 チェーンソーの振動で、なかなか上手く叫べなかったりした。そして、夢だってわかっているのに、夢なのにけっこう怖い。しかもなんとなく痛い。痛いというより、ショックで無痛になっているというような設定がぼんやりとあって。2人があまりにも延々と楽しんでいるので、

「わたしの夢のくせに」といったら、
「気に入らないならあんたの夢だから好きにできるよ、したらいいよ、なんでできないの」

と言い返された!……でも、わたし、明晰夢は一度しか見たことないし、夢を好きにできたこともほとんどないもの。しばらくして満足したのか、チェーンソーを身体にあてられることもなくなったので、わたしも転がっているのに飽きてきて、手足の無くなった血だらけの身体で窓のところまで、這っていってみました。外を見れば、なんと一面緑の野原。そこで、いつもと違う、やっぱり、これは夢なんだって、また思ってほっとします。


その野原では、何台ものジープに数人ずつ男性が乗っていて、たくさんの女の子たちをひき殺そうとしていた。女の子たちはなぜか吾妻ひでお先生が描くような姿の少女たち。そのおかげか、逃げ回っていたけれど悲壮な感じはなかった。ヘンリー・ダーガー描く戦場みたいなポップ且つ凄惨な雰囲気。ヴィヴィアン・ガールズ!みたいな。助けたい、なんとかして助けなくては、わたしの夢だからわたしがなんとかしなくては。なのに、そう念じても念じても、どうにもできなくて面映くてとても苦しくて。自分のうなされる声で目覚めたら、何がそんなに悲しかったのか悔しかったのか泣いていたのに気づきました。

思わずはっとして、手足を確かめたらもちろん無事でした。ちゃんとついていました。けれど、ショックが大きいとぼんやりとしか感覚が起きないこともあるし、記憶がとぶこともある。現実に手足がなくなるようなことに遭遇したら、この夢みたいにぼんやりとした感覚しかなくなってしまう、ということはもしかしたらあるのかもしれないと、そんなこともふと思います。


でも、夢にここまで反抗されるなんて。やっぱりひどい夢。いつかもう一度同じ夢をみて助けに行くとこっそり誓います。あの夢の世界で逃げ続けている女の子たちのこと。ほかの誰が知らなくても、わたしは知ってしまったから。

+ねむるまえの、ちいさなものがたり


ひとつだけ、お願いを聞いてくれるのなら。

彼の前に座りこんで、張りつめた表情の少女が消えそうな声でいう。

おはよう、という言葉をわたしのセカイから消しさって。

彼はだまって少女の髪をなでる。何を考えているかはわからない。彼には顔がないのだから。髪をなでていた手が少女の顔におりていき、指で瞼をそっとなでた。そのやさしい指の動きにあわせて、彼女はすっと双眸を閉じる。

この手はとてもあたたかい。
口にはださないが少女はそう思う。そのまま指は少女の頬をすべり、一度そのくちびるを閉じるようになぞった。その次に、眼を閉じたままの少女のくちびるにふれたのは、指よりも熱く柔らかい肉の感触だった。少女は動じずに静かにその感触を受けいれた。永遠のように感じる一瞬、少女のくちびるも熱く燃えて、焔になった。

彼がふたたび少女の頭を撫でる。撫でながら、やさしく自分の膝に押しつける。なすがままに、彼女は彼の膝に頭をもたせてそのまま眠りにおちる。

もう目覚めなくてもいい?

尋ねおわる前に眠りが彼女の思考を奪っていった。彼女の魂が夢の底にさらわれて行くのを、彼は見送る。見送りながら、なにかをつぶやく。その意味をわたしたちは永遠に理解できない。彼女でさえも。それは人間が話す言葉ではないのだから。でも、その低い唸り声が祈りであることが少女にはわかった。

少女は、本当にその言葉から逃れることができたのだろうか。彼は約束を守ったのだろうか。ここで、この物語は閉じる。彼女の世界にふたたび朝はくるのか、それとも永遠に眠っていられるのかどうか。その結末をわたしたちが知ることはできない。

でも、彼女は夢のなかで思い出す。彼が、頭を撫で続けてくれたあの感触、膝にもたれたときの心地よさ、くちびるが燃えて一つになったときの永遠とも思える安息のときを。魂のおくつきに刻み込まれたそれらの聖痕を彼女が忘れることはない、絶対に。

わたしたちにわかるのは、ただそれだけなのだ。

+今年も


4月のおわりから5月のおわりにかけては、いつも静かに過ごしたい季節。しばらく目を閉じることさえできれば、日々は眠りの上を過ぎ去っていくはず。この痛みは、いつかきっと煌く魂の宝石になる。たとえ今は苦しくても、そう信じたい。そんなちいさな嘘をつきながら、今夜も眠れない目を閉じる。今は深く、もっと深くただ夢に潜りたい。夢の底へそろそろいってまいります。おやすみなさい。

+桜の季節に


1月に2月、そしてようやく3月になったらすこし落ち着けるからいろいろとりかかろうと思っていたら、3月の後半はおそろしいくらいにあわただしくて。戻りそうだった曜日感覚がまた希薄になってしまったり、思ったより疲れがあまりとれていなかったり。完全な休日がとれずに、半分は仕事してしまうというような日も意外と多かったような気もします。


それでも、いつのまにか咲いた沈丁花の香りも楽しめたし、みごとに咲いた桜も堪能しました。花を見上げ時間を忘れながら過ごす春の日々は今年も夢のようです。満開の桜をみながら宴を張る、それはそれで愉しいのだけれど、ほんとうに花を見たという気分になるのは、ひとりかせいぜいふたりで、散りゆく桜の下を、花から花へとしずかにわたり歩くときのような気がします。魂を奪われてしまってもかまわない気になってしまう、桜はやっぱり魔物。


春の夜、桜の下を歩けば、薄桃色に染まった闇の向こう側から、もうこの世にはいないはずのあのひとやあのひとが、今年もふっとあらわれそうな気がする。桜が舞い散るあの特別な時間。異界の扉が開くその刻に、だれかのことを不意に思い出したのなら、きっといっしょに歩いている。となりを歩いている。