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読書と映画の備忘録

村上春樹『太陽の南、国境の西』

「私はここに来るか、あるいはここに来ないかなの。ここに来るときにはわたしはここに来る。ここに来ないときは――わたしは余所にいるの」「中間はないんだね」「中間はないの」と彼女は言った。「何故なら、そこには中間的なものが存在しないからなの」
(中略)
「これはとても大事なことだから、よく聞いて。さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものが存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたは私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの」

――村上春樹『太陽の南、国境の西』(講談社文庫、1995)

リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』

ヴァイダは自分の体に向かって、雨が降るときのような身振りをしながらいった。「これはわたしじゃありません。それがやることに対して責任を負えるわけがないでしょう。ほかの人からなにかを得ようとしてこの体を利用する気はありませんし、そんなこと一度だってしたことはありませんでした。
わたしはそれから隠れることにすべての時間を費やしてきたほどです。自分の体がまるでB級映画に出て来る怪物であるかのように、それから隠れることに一生を費やすなんて想像できますか? それでいて毎日、この体を食べるために、眠るために、そしてあるところから別のところに行くのに使わなければならないのです。お風呂に入るときはいつも、吐き気を催しそうなほどです。わたしは間違った皮膚のなかにいるのです」
(中略)
わたしは彼女のパンティを脱がし、その行為は完了した。ヴァイダは一糸もまとわない裸で、そこにいた。「ね?」ヴァイダはいった。「これはわたしじゃないでしょ。わたしはここにはいないのよ」彼女は両手を伸ばし、腕をわたしの首に巻きつけた。「でも、あなたのためにここにいるようにする、図書館員さん」

――リチャード・ブローティガン/青木日出夫譯『愛のゆくえ』(ハヤカワepi文庫、2002)

アンナ・カヴァン『氷』

力を使い果たした少女は、もう終わりだ、起き上がれない、これ以上走れないと思う。だが、緊張しきった肉体は、容赦なく少女を立ち上がらせた。抵抗しえない運命の磁力に引かれて、少女は否応なく進みつづけなければならなかった。少女が最も弱く傷つきやすかったころにシステマティックになされた虐待は、人格の構造をゆがめ、少女を犠牲者に変容させた。物も人間も少女を破滅に導く存在となった。人間、森、フィヨルド。破滅に導くものが何であろうとさしたる違いはない。どのみち、少女はその運命から逃れることはできない。彼女に与えられた回復不能の傷は、遠い昔にその運命を不可避のものとしてしまっていた。

――アンナ・カヴァン/山田和子譯『氷』(バジリコ、2008)

桜庭一樹『ブルースカイ』

「わたし、あなたの、願いを叶える」
クリスティーネは落ち窪んだ瞳でわたしを見上げた。わたしは続けた。
「もっと、ずっと幼いころから、わたしはあなたに敬意を感じ続けてきた。あなたの美しさと善良さに憧れていた。わたし、約束する」
「マリー……」
「わたしは、いまこのときのあなたのことを記憶しない。あなたは、もういない」
(中略)
「わたしはずっと、あなたが美しい若い女だったことだけを覚えている。ただ、それだけを。昔のことだけを。善いことだけを」
倉庫の中に香りが満ち、青く、夜を焼き尽くすほど激しい月光が窓から、開け放たれた鉄の扉から、わたしたちの上に煌々とと降り注ぎ始めた。
「わたしは長生きする。そしていつの日かとつぜん大人の女になり、こどもを産んで育て、でっぷりと太って、最後にはしわくちゃのおばあちゃんになってしまう。そのあいだずっと、わたしはあなたのことを忘れない。約束する。年老いていくわたしの記憶の中で、かつてのあなたはけして死なない。あなたの変化も穢れも裏切りもその世界には存在しない。約束する。クリスティーネ、わたしは約束する」

――桜庭一樹『ブルースカイ』(ハヤカワ文庫、1995)