■
「1-1=0
美しいと思わないかい?」
博士はこちらを振り向いた。
ええ、思います、思いますとも、博士。
「いちたすいちは、に、だとおもう? ほんとうに?」教授がわたしの前で不意に立ち止まり、正確なゆっくりとした日本語でこう聞いたことがあった。中世哲学の講義。尋ねられるとも思っていなかったわたしは、その質問にいいえ、と答え、首を横に振るのがやっとだった。どう言葉をたぐり寄せて紡いだら、その問いに答えうるのか、教授を納得させることができるのか、そのときはわからなかったのだ。
いちたすいちは、に、であり、なおかつまた、じゅういち、でもありうる。そして、また違う答えもある。その可能性を否定できない。このようにひとつの数式からでも、この世界はまったくちがった様相を顕現させることができる。
そういう世界の在り方、無数に姿形を変え、顕れては消えていくその美しさをわたしは否定することができず、そして、また世界は美しくない、ということを証明することもできないままにいる。
否定するには可能性をすべて排除しなければならないというのに。二極化を貫こうとする悪しき思考?
でもだから、わたしは言ってみる。なんだか今夜はすこしだけ赦されるような気がして。
「せかいはうつくしいです、とてもとても」
- 作者: 小川洋子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/11/26
- メディア: 文庫
- 購入: 44人 クリック: 1,371回
- この商品を含むブログ (1054件) を見る