37.2℃の微熱

読書と映画の備忘録

+夏のおわりに

時は飛ぶように過ぎゆき、飽くことなく四季は巡る。今は夏。美しさにしなやかさと強さがそなわる季節。夏の終わりはいつも突然。だから鮮やか。熱気を孕んだ日々は短くて儚くて、白昼夢のようです。よき時間をお過ごしください。


むかし、誰かに書いた手紙のテキストがでてきた。カレンダー上では夏のおわり。でも、暑いせいかそんな気分にはまだなれなくて。毎年ミルクティがひときわ美味しく感じるようになるのが、秋のサインだったりするけれど、それはしばらく先になりそうです。それでも、ときおり風が涼しいのに気づいてはっとなります。移ろっていく時間を感じて。これからすこしずつ蝉の聲から、秋の虫の聲に季節はうつっていくのでしょう。


暑さが残っているうちは今年の夏を満喫できたらいいな。ほんのすこしでも、燦めく夏の時間を時の宝石箱に残すことができれば。それはとてもうれしいことだったりします、から。

+ダーガーのどこにもない王国のこと

巨神兵の日記を書いていて、ダーガーのことを思い出したので、ダーガーのことを。そういえば、「エンジェルウォーズ」という映画が公開されたとき、トレイラーやスチールを見ては、ダーガーのヴィヴィアン・ガールズがなぜかあたまに思い浮かんでいた。結局映画はまだ見ていません。


ダーガーの絵を見ているとなぜか泣きそうになってしまう。とても豊かな内面世界を持つためには、必然的に魂は孤独でなければならないと思うから。ずっとそう思っていた。でも、彼の世界にひたっているうちに気づく。孤独な人は、こんな色使いでこんな絵を描かない。彼は本当は孤独ではなかった。少なくともその魂や精神はこれ以上ないほど充たされていた。彼は豊かなその内面世界を生きた。もうひとつの世界と自由に往還しながら。それと比べれば、この現実なんて何ほどのものでなかったのだ。
ヘンリー・ダーガーをはじめて知ったのは、たぶん中学にあがったばかりの頃。『芸術新潮』の特集号にのっていたのを読んだのだったと思う。


いつか表参道でやっていたダーガー展は疲れていて熱があって、会場の前までいったのだけれど、とうとう中にまでは入れなかった。とても残念だったけれど、売店にまではたどりつけたので、ポストカードを買った。そのポストカードには、「ブレンゲン、猫頭毒なし、キャサリン島にいる種類のもの」というタイトルがついていた。黄色い猫頭に、ドラゴンのからだをしている。どことなく可愛い。
ブレンゲンは、ダーガーが生涯をかけて綴った、一万五千ページ以上にもわたる『非現実の王国で』と題された世界で、子供を守護しているいきものだ。王国では、子供奴隷制を持つ軍事国家グランデリニアと、ヴィヴィアン・ガールズという両性具有の可憐な七姉妹たちが終わりなき闘いをくりひろげている。少女たちはどんなにひどい目にあっても決して戦うことをやめたりはしない。
ダーガーは、そんな物語を生涯かけて紡いだ。この物語がみつかったのは、彼の死後。部屋を貸していた大家さんが遺品を整理していたときにみつけたのだという。発見されたのち、奇跡的にその価値に気付いた人々の手によって公開された物語でもある。


今、記憶しているかぎりで書いてしまえば、ダーガーは孤児院で育ち、人とコミュニケーションをとることもうまくなく、家族ももたなかった。ダーガーが産み落としたヴィヴィアン・ガールズたちには男性器がついていて、それは、ダーガーが生涯女性とセックスしたことがなかったからだとか、女性の裸体をちゃんと見たことがなかったからだとも言われている。そう推測されてしまうくらいに、天涯孤独だった。ほんとうのところは不明なのだけれど。
それでも、ダーガーは、淡々と機械的な仕事をこなす日常を送りながら、家に帰ると、比類なく素晴らしい非現実の世界にいくことができた。その想像力について思うとき、もしもこの世界にそんな力が存在していなかったら、あったとしても機能しなくなってしまったらと思うと、ぞっとしてしまう。
夜な夜なグランデニリアと戦闘を開始し、闘いつづけるヴィヴィアン・ガールズとは、まぎれもなく、よるべない現実と戦い生き延びつづけたダーガーそのひとでもあったのだから。


強靭な幻想の前に、彼岸との境界は決壊し、いつしか世界は変容を遂げてしまう。卓越した想像力の前では、現実なんて脆くて儚い泡沫でしかない。

だから、わたしは”アヴァラニウスの園”を求めずにすむひとよりも、求めずにはいられないひとを信じる。あの狂宴へと招く白い手に抑えがたい誘惑をかんじずにはいられないひとたちを。

+夏の宵に


電車で、浜松町を通ったらちょうど花火があがる頃合い。ホームからも綺麗に見えたのだけど、光と音に吸い込まれるように電車を降りて改札を出て、外まで見に行きました。夜空を見上げて眺めているだけではなく、大気の震えなども含めて、全身で花火を感じる。この感覚がおこるから、花火は大好き。夏の夜の楽しい偶然。まだまだ厳しい暑さもつづく日々、体力を持っていかれそうになるけれど、今年の夏もいちどきり。そう思いながら大事に日々を過ごす、夏の時間はやっぱり特別。

+巨神兵と一緒に見る終末の夢、東京2012

――特撮博物館に行ってまいりました、2012年の夏の日のこと。


世界なんていますぐ滅びればいい。そう願いつづける貴女が消えずにわたしのなかにいることは知っているよ。明日にでもあの巨神兵がここにくればいいのにと、存在することすべてを、世界を憎悪しつづけるのをやめられない貴女。だから、この魂はいつまでも落ち着くことができずに、また疲れ果ててしまう。


でも、展覧会のはじめにこう書いてあったのを読んだでしょ? 館長のことば。

誰も観たことのない空想世界を創造する魂の力。
それを具現化する繊細かつ大胆な技術。
更に映像作品へと昇華させ完成させるものすごい情熱。
そして、仮想空間に情報で描かれた立体物ではなく、
実在する立体物を空気と光学レンズを介して描かれた映像世界の
様々な魅力を少しでも感じ取っていただければ、幸いです。⋆

巨神兵東京に現わる』を見た後、その言葉を頭のなかにひびかせながらジオラマのなかに入ると、眼前にたちまち巨神兵が降臨し、さきほどの映像が再現されていく。


完全に、完璧に、魔法にかかった。だから、ほら、もう大丈夫。
大気に響き渡る轟音や頭上から落ちてくる巨大な影を感じる。とてつもないものがやってきたのがわかる。見て、あの圧倒的な破壊力を。地上が炎で覆われ、高層ビルというビルが薙ぎ倒されていく。東京タワーがみるまに熱波でまがって折れてゆく、飴細工のように。見慣れた駅が、街並みが一瞬で火焔の海と化す。巻き上がる灰燼に視界は霞み、世界が焼ける匂いが鼻をつく。大気はちりちりと熱をはらみ、吸い込む息は熱くて、喉や胸が焼けるよう。なのに、背筋はぞくぞく寒くて、足が竦む。逃げなくては。そう思っているはずなのに、一瞬たりともこの光景から目が離せない。映像の語り手の少女がそうであったように。この東京をかくも美しく破壊していくあれは、まぎれもなく神なのだから。


……空想力と情熱、熟練された技術によって作り上げられたミニチュアが、どこにもないものを召喚するための魔法陣となってくれるのなら。魂はいつでも自由に想像を駆使して、あの巨神兵を呼びよせることができるはず。その空想の中でなら、わたしは世界を憎悪しつづけながら恐怖におびえるもうひとりのわたしを殺しつづけることができる、無限回数永遠に。そう思ったら、なぜかすこし安心できた。なぜだろう。はっきりとはわからないけれど。でも、魔法にかけてもらえたことがとても嬉しかった。つまり、わたしはあの映像表現や技術に惹かれ、素直に感動したのだった。その証拠に、帰宅する足どりは軽やかだったのだもの。


こちらの世界に名前のないものをひきよせ、名づけ、顕現させる力。この現実から逃げるのではなく、この現実と対峙し戦う手段としてのいとなみ。それが、想像や幻想の機能だと信じている。だから、いままで多くの人がそうしてきたように、何度でもくりかえし彼岸のものをこちらにひきよせたい。それが波打ち際に築く砂のお城のように、現実という恐ろしい波に常に突き崩されてしまうものだとしても。
まだ魔法はあるのだと、今夜も信じていいのなら。


*『館長庵野秀明 特撮博物館ミニチュアで見る昭和平成の技』図録より

+花火を見ながら、あの一瞬のことを

――隅田の夜空に打ちあがる花火を見にいきました。雨天のため、中途の中止は史上初とも聞きました。それでも心の琴線に触れるには充分な時間、花火を堪能してまいりました。

暗い夜空にたった一瞬、鮮やかに咲く焔の花。ひとまたたきするあいだだけ、網膜に閃く光。それは、ときどきほんのわずかな時間、この世界に奇跡のように顕れる美しい瞬間そのもの。だから、こんなにも花火には惹かれてしまうのだと思う。


打ち上げられる花火を見つづける。花火が開く瞬間は、ただそれを見ている。なにも考えていない。花火になっている。花火が消えてしまったあとに、ようやくそれを見ていたことに気づく。夢から覚めたときのように。
いまは存在していないのに、わたしのなかにある無数の花火の記憶。つまり、この世界に顕現した美しさの記憶たち。それを憶えているということ、まだ思い出せるということ。その一瞬があるからこそ、次のその瞬間までの苦痛を耐えられるということ。


そういう記憶によって生かされ続けている、そう気づいたからこそ、昨晩、目の前に繰り広げられた美しい景色のことも忘れないでおきたい。そのうちまた訪れるはずの次の瞬間に、たしかに飛びうつることができるように。

+幽霊になってみた、初夏の夜


ある夜、街を歩いていて見つけたビルの一角は、どこか戦後の闇市を髣髴とさせるたたずまい。商店がたちならぶコンクリート造りの一階の細い路地に紛れ込んでみると、もうシャッターが閉まっているところばかり。1回、2回、3回目の角を曲がったら、まっくらないきどまりでした。つきあたりのシャッターから、通りの灯がわずかに漏れています。暗闇のなかで、何が見えるのかと目を凝らし息を潜めていたら、不意に電気がぱっと付きました。

だれかがつけてくれたのかと思っていたら、そこの商店のお姉さんがふるえながら茫然と立っていました。ちょうど閉店時刻だったようで、ビル全体の確認のためにもう一度照明を点けられたようです。そのこともわななく声で説明してくださいました(^-^;幽霊か悪霊にでもであってしまったかのようなご様子で、大変恐縮しながらお詫びしたのですが、なぜか反対に大謝りされてしまったり。ひどく驚かせてしまったようです(*_ _)人ゴ、ゴメンナサイ。だれもいないはずの、暗いところから、不意にひとがでてきたらびっくりしますよね。

申し訳なく思いながら、ビルの中の商店をでて明るい大通り沿いへもどります。通りはひとがとても多いのだけれど、だれもわたしのことなんて見ていない。当たり前だ。そんな空気の中をてくてく歩いていると、さっきのことを思い出して、本当はとっくにわたしは幽霊になってしまっているのかもしれない、そうであっても全然おかしくないのだとふっと考えたりする。この都市では、ひとはよくおたがいが幽霊であるかのようにふるまったりする、それは必ずしも居心地の悪いことではないのだけれど。

すこしぼんやり歩いていると、夜風が気持ちよく頬に触ってきます。初夏の匂いをいっぱいに孕んだ生暖かい空気。思わず手をそっとのばしてみる、この世にある確かな温かいものに。触れていると、夜のあかりが煌く光の海の中、遠くて近く、あるいは近くて遠いところで、だれかがわたしの名前を呼ぶのを聴いた。

だから、思いだす。まだ、いきているということ。

+5月の薔薇を想いだす夜に

  

冥い森のなかをのぼりきったところで、視界が開ける。不意に顕れる、色とりどりに咲き乱れる薔薇の海。まるで秘密の花園のようです。そんなひっそりと謎めいた立地のお庭を堪能してきた5月の或る日。


ある週末、TLで教えていただいた生田緑地のばら苑へいってまいりました。黒い薔薇模様の日傘も持っていったけれど、暑くもなく薄曇のよい日でした。秋も楽しくはあるけれど、薔薇は五月がいちばん美しいと思います。最初はあまりにも綺麗な庭園のたたずまいに、眼と心を奪われてただひたすらふわふわと歩きました。ときどき立ちどまっては、花に顔を近づけなどして、それぞれの繊細な香りを楽しませてもらいながら。

歩きながら、何年も前に読んだグルニエのエセー「ケルゲレン諸島」の一節を思い出す。グルニエが、街を散歩をしていると、どこからかすばらしくかぐわしい花の香りが漂ってくる。花の姿は見えない、壁の向こう側だから。グルニエは、そのすばらしい香りを楽しみながらこう思う。この花を閉じ込めるひとたちの気持がわかりすぎるくらいにわかってしまうと。

静かに薔薇が咲き乱れる小道を歩いていると、この園はグルニエがその外を歩いていた壁の内側なのだと思う。ほかのひとにはなかなか理解してもらえない精神の一部分。だからこそ、土足でむやみに他者を立ち入らせてはならない場処。でも、そのような侵しがたい領域が自分のなかにあるからこそ、他者と真に交わることが可能になる、そういうもの。それはわたしだけではなく、おそらくだれもが心の奥に秘めている場処、たとえば聖域と名づけたくなるような。

以前は、胸がしめつけられるくらい好きな本や映画があれば、それを知っているだれかと対話したり、どう感じたかを共有してみたいと思っていた。それは同じ感想や感じ方ではなくてもかまわない、ただその作品に触れたわたしではない誰かがどう思ったか知りたかったりする気持。もちろんそういう出会いがあれば、いまだってとても嬉しいし、そうして他者と触れ合いたいという気持が薄れたわけでもない。
でも、いまは、そうではない歓びも知っている。だれもその作品を知らなくても語らなくても、ただひそやかにその作品を愛すること。愛しつづけること。くりかえし直に触れながら、読んだり見たり聴いたりする、その行為そのものが歓びであるようなこと。自分にとってそういうひそかなものがあるならば、それはきっと一番大事な宝物。


薔薇のアーチをくぐり薔薇の海のなかを泳ぐように歩きながら、わたしはすでにそういうものをいくつか見つけてしまったのかもしれないと思って、すこし慄き、もっとそのような宝物や秘密の場処を探したいと願ってみたりする。いましばらくは、まだこの世界と戯れていたくて。

明日はこの世界で何をして遊びましょうか、宝物をさがしながら。

季節は四月か五月だった。路地がまがっているかどのところで、ジャスミンとリラのつよい匂いが私の上にふりかかってきた。壁面にかくれていて、花は私には見えなかった。しかしその花の香を吸うために、私は長く立ちどまっていた。そして私の夜は、その匂いで香ぐわしかった。自分が愛する花をそんなにひたかくしにかくしてとじこめている人たちを、私はどんなに理解したことだろう! 愛の情熱は、そのまわりに要塞をめぐらそうとする。そのとき私は、あらゆるものを美しくする秘密をあがめた、そうした秘密がなければ幸福はないのだ。
――ジャン・グルニエ/井上究一郎訳「ケルゲレン諸島」『孤島 改訳新版』(筑摩叢書、1991)